今回の記事ではちょっとした思考実験をします。少々、想像の世界にお付き合いください。
「月は月としてある」というお話。
*
月があります。
その下には、大きな庭があります。
庭には「百個のバケツ」が、少し間隔をあけながら並んでいます。
そして、それぞれのバケツの中には、水が入っています。
覗くと、水には「赤、オレンジ、黄、緑、青、紫」などと、さまざまな色がついています。
同じ赤でも、濃い赤もあれば、ほとんど透明に近い淡い赤の水もあります。
朱色に近い赤、黒みのある赤、紫に寄った赤、オレンジに寄った赤。私たちはまとめて「赤」と呼んでいますが、その赤色にも無数の違いがあるようです。
あるひとつのバケツの中をじっくり覗いてみると、水は「濃厚な赤色」です。かなり濃くて底が見えません。
隣のバケツも赤い水です。こっちはもう少し「薄い赤」です。水の表面に、月がぼんやりと映っているのが見えます。
さらに隣のバケツを覗くと、ごく淡い赤色の水があります。かなり透き通っているので、月の姿がハッキリ映っているのが見えます。
続いて庭を歩いて調査してみましょう。
さっきまでは赤い水ばかりが密集していたのに、しばらく歩くと「青い色の水」が入っているバケツが増えはじめます。もっと進むと、今度は「オレンジ色の水」の密集エリア。もっともっと歩くと、「黄色の水」や、「紫色の水」ばかりのエリアもあることに気づきます。
今度は一度、少し高いところから庭全体を見渡してみます。
すると、赤い水が多く集まっている場所、青い水が多い場所、その先にはオレンジ色、黄色、紫、緑の水が多い場所があるのが分かります。
それでも、赤いエリアで、全部が均一に赤色というわけじゃなく、赤の場所の中にも、黄色や青、緑、紫などがポツポツ混じっているところもあります。場所ごとに何となく色の傾向があるようです。
その様子を時間をかけて見守っていると、その色の傾向も少しずつ変化していきます。
赤が多かったエリアに紫が増えてきて、全体が紫に変わってきたり、それまで黄色だらけだった場所に緑が次々と増え始めたりします。
一つのバケツだけに絞って、しばらく見ていても同じことが起こりました。
赤だった水の色が、青になったり、紫になったりします。
つまり、どのバケツの水も同じ色のまま固定されていないようです。
さらにもっと長い時間、この庭を眺めていると、庭全体にも時期があることに気づきます。
どの色の水も一斉に濃くなり、月が見えにくくなる時期がある。
反対に、庭のあちこちで水が薄くなり、それまで見えなかった月が水面に現れやすくなる時期もあります。
それでも、空を見上げれば、月は一切変わらず、煌々と静かに輝いています。
赤い水にも青い水にも、同じ月の光が届いている。
百個のバケツを一つずつ覗けば、水面には百通りの月が見えるので、水面だけを見ているかぎり、月そのものまで、百個あるように見えます。
が、顔を上げれば、やはり月はただ、一つです。
ここから、この庭を、我々人間の世界として見てみましょう。
*
なぜ水の色は違うのでしょうか。
バケツを一人の人間、水をその人の心とします。
ここでは、水の「色」と「濃さ」を少し分けて考えます。色は、その人の個性や心の傾向です。
何に惹かれ、何を避けようとするか、何を美しいと思い、何を醜いと思うか。どんなことを考えやすく、どんなことに興味や関心を持ち、影響を受けるか。
一方、濃さは、その色がどれほど強く心を覆っているかです。想念の質量と言ってもいいでしょう。
同じ赤でも、真紅の水もあれば、やんわり赤みを残しながら底まで見える水もあります。
人間も似ています。
あるひとつの映画をみても、その映画から無数の物語を連想し、そこからさらに世界観を広げる人もいれば、「面白かった」とか「つまらなかった」と一言で終わってすぐに忘れる人もいます。
また、同じ国で、同じ街を歩き、同じ時代を生きていても、完全に同じ世界を経験しているとは限らない。
ある人が何年も考え続けていることを、隣の人は人生で一度も考えたことがないかもしれないし、一人には魅力的なものが、別の一人には恐ろしく退屈に見えることもある。つまり、同じ家庭で育った兄弟姉妹さえも、まったく別の想念や傾向を持ちます。
このサイトではこれらを「ヴァーサナー」という言葉で表すことが多いです。
「経験や反復によって残り続け、心をある方向へ向かわせる潜在的な傾向」のことを指すインド哲学の言葉です。
これを水の色に重ねると、なぜ同じ出来事に触れても人によって反応が全然違うのか少し見やすくなります。
しかし、その色を作っているものは「個人の経験」だけとも限りません。庭を思い出してみると、類は友を呼ぶというように、似た色のバケツが集まる場所がありました。
人間も、生まれたときから国や土地、家庭、言葉、文化、その時代の常識の中に置かれています。
先祖や親から受け取ったものもあれば、環境や出来事から受ける影響、本人が生まれる前から続いていた価値観や恐れが、その人の中へ入ってくることもあります。
集合的な心という言葉を使うなら、このエリアごとの色の偏りに近いでしょう。
国や宗教性や常識が違えば、考えも、行動も、正義や悪の捉え方も、価値観も全然違うわけです。
さらに庭全体にも時期がありましたね。
また分かりやすいのでインド思想の話を引用しますが、「ユガ」という言葉があります。これは巨大な時間周期についての考え方です。
現代のスピリチュアルでいう「アセンション」や「時代の転換」という発想を連想する人もいるかもしれません。ここではその教義へ深入りしませんが、簡単にいえば、個人や土地よりさらに大きな時間の流れまで考える発想です。
つまり一つのバケツには、そのバケツ固有の色があり、置かれた場所から受ける影響があり、さらにはその全部を包む時代があります。
このような私の話も戦国時代に世界に公開していたら、処罰にあったかもしれませんし、明治時代なら、場合によっては私の住まいは精神病棟の中だったかもしれません。
それでも、どの時代にせよ、人は、自分について知ろうとします。
なぜ私はこういう性質(性格)なのか。なぜこの時代、この場所、この家庭に生まれたのか。なぜこの環境で、同じものを見ても、私はこう感じるのか。
しかし、その「自分の心」というものも、よくよく見ると固定されておらず、生きているあいだにも、さまざまな変化が起こり続けます。
「自分だけのもの」だと思っていた色の中には、家族や、他者や、土地や、時代や国から受け取ったものも混ざっていることが分かります。
そういったことも含めて、一つ一つのバケツには、そのバケツにしかない唯一無二の色があります。
赤といっても、まったく同じ赤はなく、同じ庭にいても、見えている世界は誰一人として完全に同じではないわけですね。



コメント