私は探究時代に無性に惹かれて読んだ霊本があった。
それが『竹取物語』である。これは平安時代初期ごろに成立したとされる日本最古級の物語である。
そして、あなたもまた時代、場所、性別、地位、関係なくある意味で「かぐや姫である」ということをここに明記したい。
かぐや姫といえば月である。そして、この地は二元の場である。月では一つだったものが、地では二つに分かれる。
この地ではどんな時代にも石がある。石、いし、意志。
石を手から離してみると、引力によってそのまま下へ落ちる。
では、空へ行くものはどうだろう。
煙。炎。ヘリウム風船。空に行くものたちに上を目指そうとする意志があるわけではない。
そのものの性質が、地上に留まり続ける重さと合わなくなれば、その分だけ自然と空へ昇っていく。
かぐや姫の場合はどうだったのだろうか。彼女は物語の最後、月へと至った。
この物語は昔からさまざまに読み解かれてきた話だ。読者によってはこの話はもう知ってるよって方も多いかと思う。
ただ、今回は私の見解も挟みつつ、本書の記述にはできるだけ忠実にこの話を改めて一緒に見ていきたい。それほど価値のある物語だから。
竹の中の光
物語の最初、竹取の翁は光る竹を見つける。
竹を見ると、その中に三寸ほどの小さな人がいた。
ここでまず注目したいのは、なぜ、彼女はこんなにも小さいのだろうかという点である。古い言葉には、真我を「最小のものより小さく、最大のものより大きい」と表したものがある。
大きさという概念を超えた無限のそれは、地上へ現れるとき小さな一点になる。そして、その一点が光っている。
なぜ竹なのだろう。
竹とは物質の象徴である。
触れることができ、切ることができ様々な道具にもなる。ところがその中は空洞だ。そこには物質と空性が一緒にある。かぐや姫はそこから生まれた。このことは、空性と物質世界が直接そのまま表裏一体のパラドックスであることを示している。
彼女の物語は探究者が真理、真我、合一を実現するプロセスの一つとして描かれ、この世界に残された話だと私は受け取る。
かぐや姫が来てから、翁は竹の節と節の間に黄金を見つけるようになる。
翁の家は豊かになっていく。
地上で最も分かりやすい幸福の象徴の一つが黄金だろう。
ところが、その黄金さえ、空と空の間から出てくる。何もないところから地上の価値が生まれ、それを人間は宝と呼ぶ。
月にはなかった遊び
小さなかぐや姫は、わずか三か月ほどで大人になる。
ここでのポイントは、最初に描かれる体験がまず「成長」であることである。
かぐや姫はもともとは月の者。月とは完璧さ、完全さそのものだ。
月の者が地上に来て「成長」したという体験をまず描くのは、まるで地上でしか「成長」という体験は味わえないと示しているようにも見える。
ここで見たいのは、かぐや姫はこの分離の地上へ苦しむためだけに来たわけではなかったということである。
彼女にとっては(少なくともこの時点では)他者との触れ合いや、変化との触れ合い、そして成長という地上でしかできない体験はきっと素晴らしいものだったはずだ。
*
かぐや姫は「なよ竹のかぐや姫」という名前を与えられる。
ここで彼女に名前が付く。
名前というものは面白い。一度ついたら改名しようが、その名前というシステムから逃れられない。
月の者が、地上で身体を備えた一人の人間になっていく、名前とはそんな瞬間の烙印でもあるようだ。



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