問い
自由意志はあるのでしょうか。それとも、すべては決まっていて、私たちに自由意志はないのでしょうか?
応答
「絶対意識」の立場から言えば、自由意志は「ある」と「ない」のどちらかではなく、その両方を超えています。
たとえば昼になって、「今日はラーメンを食べよう」と思ったとします。
あなたは駅前の店まで行き、並んで注文して、実際にラーメンを食べたとする。
そのあとで振り返ると、「自分でラーメンを選び、自分の意志で店へ行った」と言えますね。
誰かに強制されたわけじゃないし、別のものを食べようと思えばそうすることもできたように感じます。
この立場から見れば、「自由意志は、ある」といえます。
一方で、「ラーメンを食べよう」という最初の考えは、どこから来たんだろう。
考えが現れる前に、あなたはその考えを選んだのか。
その時の空腹の程度だったり、昨日食べたもの、店の看板のイメージや、匂いのイメージ、それから三日前ラーメンの動画を見た記憶、シンプルにその時の体調、財布の中身など、
その瞬間に起きた無数の条件が重なって「ラーメンを食べよう」という決定的な思いが突然現れた。
そして、思いが現れてから、「私はラーメンを食べることにした」という物語が作られます。
この立場から見れば、自由意志はありません。
では、どちらが正しいと思いますか。
常識的には日常の中では、自分で選び、自分で行動したと言って問題ありません。
約束を守ることも、失敗を認めることも、やり直すことも必要です。
「自由意志はないのだから何をしても同じだ」と言うなら、その言葉もまた一つの考えにすぎません。
ただ、その選択が起きるところをよ〜く見てみると、「選択する者を見つけることができない」のもまた事実です。
考えが現れ、身体が動き、言葉も出る。
そのあとで、「私が考えた」「私が動かした」「私が決めた」という感覚が現れます。
ここで多くの人は、身体が自動で動いていると気づき、「自由意志は存在しない」と結論づけます。
それもまだ一つの見方です。
自由意志がないと知った「私」が残っているからです。
「私は何もしていない」
「すべては勝手に起きている」
「行為者はいない」
そう理解している者は、何者でしょうか。
それもまた、あとから現れた思考であり、現れ、出来事じゃないでしょうか。
自由意志があるという感覚も、自由意志がないという理解も現れる。
どちらも対象として気づかれるもので、知られている側のものです。
ならば、真理を「自由意志はない」という側だけに置くことはできません。
個人として生きているあいだ、選択は起きます。
迷いも起き、決断も起きます。
その決断によって大きく人生が変わったように見えることもあります。
同時に、その個人、その迷い、その決断、その結果まで含めて、一つの巨大な動きとして起きています。
海の波が右へ進むか左へ進むか、自分で決めているように見える。
波の立場から見れば、確かに一つの動きがあります。
海の立場から見れば、波だけが独立して何かを決めたわけではありません。
では海には自由意志があるのでしょうか。
その問いを出している者も、海の外にはいません。
自由意志があると思うときには、自由意志のある世界が現れます。
自由意志がないと見抜いたときには、すべてが起きているだけの世界が現れます。
真理は、その二つの世界が現れる以前から在ります。
だから答えは、「ある」と同時に「ない」です。
このパラドックスが最終的な答えになり、
そして、「絶対」「真我」の観点から見れば、そのパラドックスさえ超えられています。
自由意志が成立するのか、しないのか。
知らないんです。
「自由意志がある、ない」を知る主体が溶けていますから。
だからこそ不可思議なんです。

