瞑想に夢中だった頃、私は思った。
純粋な意識の状態にとどまる。
「私は在る」
これは、言うなれば世界や人生という壮大なアドベンチャーにおける、
純粋な存在としての娯楽であり、とてもいいリクゼーションに感じられた。
それは、晴れの日も、雨の日も、風の日も。いつでもそばにいる良き相棒で、
RPGゲームなんかでよくある、疲れたらそこで休憩したりリセットできる回復の泉のようだった。
また、回復の泉は、壮大なアドベンチャーを決して否定しなかった。
むしろ、私の成功や喜びだけでなく失敗も苦しみも、全肯定してくれる相棒といっても差し支えなかった。
コース料理の、間に、水を飲んで渇きを癒し、口内の味を一度リセットするようなものでもあった。
だから当時私は「真理」「悟り」「探求の話」こういうものを真面目ぶって話すかわりに、
子供時代に秘密基地を友達に教えるような感覚で、「純粋意識は素晴らしいんだよ」と、周りの知人や友人に、それとなく勧めたこともある。
だって、それはシンプルにいいものだったから。
でもやはり、勧めるといってもあくまでも、それとなくしかできなかった。言葉えらびにも慎重になった。
ドン引かれたくなかったからだ。
「なにそれ、変わってるね」とか「興味ない」ならまだいい、
ところが、「瞑想?足組んでぴょんぴょん跳ねたりするやつか?」
なんて言われた日には・・返しが、めんどくさい。
「オッケーなんでもない、忘れて」
結局秘密基地は、秘密基地だった。
でも、私にとっては良きものだった。
友よ。君も、純粋意識なんだよ。知っても知らなくても。
友人の知らぬ、友人の産みの親。

