そのとき私は、もうやることがなくなってしまったので、何かを書き残そうとして書いた。
しかし、そのまるで遺書のような文章は、ノートに書くのではなく、サーバー契約して気づいたらサイトを立ち上げていたのである。
私がまず一番に考えたことは、「パラトゥリクスの意味がわからない。どういうことだ?」だった。
聞いたこともないマントラ(ジャパ)のようなものが、ずっと内側でネズミ花火のようにゴロゴロと回っていたのだ。
「パラトゥリクス・・パラトゥリクス・・パラトゥリクス・・」
恐竜の名前なのか?
ナマコ生活の果てに、恐竜サイトでも始めるのか、この私は、と思ったくらいだ。
結局パラトゥリクスの意味はわからなかったので、
パラ──トゥリーヤ──パラドックス
この3つの単語を、一つの言葉としてまとめたものという結論に至った。
だが結局、
本当にこういう文章を、サイトに載せることになるとは思わなかった。
「真理探求者への励まし」 として機能するかは誰にもわからない。
はじめサイト制作は暇な時に触る、ぐらいだった。
だけど、気づいたら、結構取り憑かれるように集中することとなった。
その時期、気づいたら、一時的にだが、仕事や人間関係が私からどんどん離れていった。
私は時間が空いたこともあり、観念して、スパリゾートへ行くか、音楽を聞くか、ライブに行くか、古い友人と呑むか、メランコリア気味な女友達の婚活相談を聞くか、だいたいそれ以外の時間はサイトのことで頭がいっぱいになっていった。
サイトを作ってもはじめしばらく記事が書けなかった。
言葉は滝のようにあふれてくる。しかし、まとめようとしてもまとまらない。
記事としてどう成立するか、思案した。
そんなあるとき、私は突然、ネットを通して真理探求についての質問を募集していたのだ。
一瞬、しまったと思った。
ちょうどその頃、ゲームにはハマってて、ゲームのロード中に手持ち無沙汰に書いてしまったのだ。
半年ほど質問をたくさん頂いたのだが、結果的にその交流を通して私は大切なことに気づいた。
まず私は世間にも普通に、というか結構多く、「真理」というワードに興味や関心があるひとがいることを知れたことは良かったし、胸を打たれた。
また、多くの人が真理に関する知識はたくさん持っていることにも驚いた。
しかし、統計的に多くの人の関心は、個人の精神や人生をどう整えるかであることを知った。
私は、思った。
パラトゥリクスのサイト意義は、あくまでも「純粋意識」の話や、必要なら「直接体感としての純粋意識」へガイドする方向性である。さらにそれ以上の真理を求める者には「絶対」の描写を私なりに伝えたい思いもある。
しかし、そっち方面ばかりの記事を徹底的に掘り下げると、読んだ人は空虚や虚無を感じるかもしれない。
これは知識というより、日常を通して体感を通し、深いところに浸透させていくことが大切である。
だから、セッションや純粋瞑想の案内も同時に立ち上げた。
昔、私もまたあらゆる知識を集めたことがあったし、真理より、個人の精神や人生の改革に興味があった時期があったので否定する気は全くないが。
ただ、真理探究といってもエネルギーがいる、精神や人生の整えまたエネルギーがいる、
このふたつを器用に両立できるタイプの人は問題ないが、これらは真逆の方向の面も持っている、
私は昔、この二つが自分の世界観の中で、対立し、まるでアクセルとブレーキを同時に踏む形になったことがある。
なので、記事の面でもその辺をどうしようか、どう工夫し、扱い、カテゴリー整理していくか悩んだ。
でも、細かい話は置いておいて、シンプルに純粋意識を知れば、人は無条件の「平和、愛、安心」を味わえるのもまた事実。
人の精神や人生の展開は、神のみぞ知る領域だけど、
「平和、愛、安心」を感じることは、人生の出来事に関わらず、純粋意識を知れば少なくとも、知らないよりは人生全体に何かしらいいものをもたらす側面もある。
そう考えると、そんなに過剰に懸念する必要もないかも知れない。
つまり何が言いたいかというと、このサイトが今後どう整理されていくはわからないし、実験を重ねていくしかない。
そう結論したのでした。

