バケツと月 ②【完】

前回、月とたくさんのバケツが並ぶ庭の話をしました。

バケツにはそれぞれ違う色の水が入っていて、その色を人間の心や傾向として見てきました。

今回は、その水面に映っていた「月」の方の話です。

水の色が濃いあいだ、その人にとっては自分の色が「世界そのもの」です。

ところが、何かのきっかけで水が少し薄くなる瞬間があります。

そのきっかけは無数にあります。

人生のある出来事かもしれませんし、何かの修練や瞑想や心体的アプローチがキッカケかもしれません。

誰かの一言、誰かの影響、たまたま不思議な人生の流れの中で、なぜそうなったのか本人にも分からない場合もあります。

しかし、その瞬間、それまで自分の色しか見えていなかった水面に、何かが見えます。月です。

バケツの水、つまり心にとっては、最初はそれが何なのか分かりません。

あれ?なにこれです。

それでもその衝撃は深いところでじわじわ起きます。

バケツの水の色が変わるなら、まだ予想がつきます。しかし、これはそういう方向性の話じゃありません。

だからこそ気になるし、何度も見たくなるものです。
いつの間にか、その月について考える時間が増えていきます。

そして月の存在を、文字通り心の真ん中に宿すようになります。

ある人はそれを「主」と呼び、「神」と呼び、ある人は「天照大神」や「アメノミナカヌシ」と呼ぶかもしれません。

「アラー」かもしれないし、「仏」や「仏性」という言葉で捉える人もいるかもしれません。「シヴァ」や「ヴィシュヌ」と呼ぶ人もいるでしょう。

単純にそういった言葉の背景がなくても「何かよくわからないけどハートがうずく」とか「スピリチュアル的な感覚がする」とか、自分の中でのしっくりくる言語化かもしれません。

どれにせよ、名前はあとからつきます。

大事なのは、それまで水の色に向いていた注意が、はじめて月へ向き始めたことです。

つまり、心の関心が「月」へ向くことは、言い方を変えれば「自分という心を照らしているもの」もしくは「変わらないもの」「不変のもの」に関心がはじめて向くということでもあります。

こうして、真理探究が始まります。

月へ行こうとする

月を知ったばかりの頃、それは自分とは別のものに見えるものです。

自分はここにいて、月はだいぶ遠くの向こう側にある。上空の方、空の彼方にあるのだろうと。

だから人は、どうにかして月へ近づこうとします。
あるいは、月の使いに降臨してもらい、月へ連れていってもらおうと祈ります。

この辺りから探究はさらに進み、次第にはかぐや姫のように、月のことばかり考えずにはいられなくなってしまいます。

昔私が見た本か映画で、ある「無神論者」が幼い頃、無理やり教会に連れて行かれたり、聖書を読まされたことで、逆に強く反発したという話があります。

人に勧められて真理の方向へ向かう人もいれば、押しつけられたことで反発する人もいます。

このように、誰かに勧められたわけでもないのに、自然とそちらへ向くようになった者は「神」という言葉を使わなくても、「真実なる何か」「大いなる何か」に心が向き出してしまいます。

本人さえも「なぜかそうなってしまったのかわからない」けど、そういった方向に惹かれてしょうがなくなってしまいます。

バケツたちが色を変え、質量を変えることに無我夢中になっている中で、ある一部のバケツたちは、月について考え始めます。

一人でじっと月を見つめるバケツもいれば、他のバケツと月について語り合う者もいます。

「どうやら、この地上にいる自分たちとは別の何かがあるぞ。月とはなんだろう。どうしたら、ここから月の場所へ行けるんだろう。また、どうしたら月の使者に降臨してもらい、月へ連れていってもらえるんだろう」など。

あちらこちらで探究が始まり、バケツ同士が集まれば、沢山の会議が繰り広げられます。

心を浄化し、水を澄ませ、意識を広げようとして、さまざまな方法を試します。
ワンネスという言葉が挙がることもあれば、チャクラを開こうとしたり、聖なる物や場所から力を受け取ろうとしたり、個人の意識を拡張していけば、いつか大きな全体意識へ到達できるのではないか、と考えることもあります。

そして、月へ向かう方法にも、それぞれの心の傾向が現れます。赤い者には明け渡しが響くかもしれないし、青い者には瞑想が、黄色い者には祈りや黙想が、緑の者には坐禅が響くかもしれない。

紫の者には、アドヴァイタのアプローチが響くかもしれないし、オレンジの者には非二元のメッセージが響くかもしれない。他には、念仏やマントラを唱えることに惹かれる人もいるでしょう。

もちろん、赤だから明け渡し、青だから瞑想と決まっているという話ではありません。

一つのアプローチだけじゃなく、複数を組み合わせる場合もあるし、もしかしたら、こういったスピリチュアル方面の知識とは関係なく、趣味や特技や仕事、社会の中での出来事や人間関係が、その人にとっての重要なアプローチになるかもしれません。

これだけ水の色や濃さが違うなら、月へ向かう入口が一つしかない方が不思議です。なので、この「方法論」も「月とは何かをどう語りどう表現するか」も、そして「どれがハートにしっくりくるか」も、人それぞれ違うでしょう。

だからこそ、この世界には古来よりさまざまなヒントが残され、それが大規模な宗教や思想にもなり、人々の胸をうちつづけてきたのでしょうし、

それほど深く人の心に入り込み、人生や価値観そのものに関わるものだからこそ、時には宗教や思想の違いが争いにまで発展することもあったのでしょう。

こうして、月について無数の考え方や方法が生まれていきます。

それでも、どの方法を選ぶか、どの言葉で月を呼ぶかとは別に、庭そのものをもう一度見てみると、少し妙なことに気づきます。

月を探しているそのバケツの水面には、すでに月が映っているという事実があります。

しかも月光は、月の探究を始めた日に、初めて届いたものでもありません。

バケツの水が月を探していなかったときにも、月の光は届いていました。

水が濃すぎて月が見えなかったときにも、ずっと届いていました。

月を想い始めたこと自体が、すでに月光の下で起きていたわけです。

すると探究の問いが、変わってくることがあるかもしれない。

「どうすれば月へ行けるのか?」

そう考えていた問いが「なぜここに月が映っているのか」へ変わっていきます。遠くへ行こうとしていた視線が、自分の水面へ戻ってきます。

「私と月には、膨大な距離があるものだと思っていた。ところが、月と私は、本当に離れ離れなのだろうか?」

見渡す限り、たくさんのバケツが並んでいます。一つずつ覗けば、百個の月があります。

人間の世界でも、自分には自分の意識があり、他人には他人の意識があると感じています。
私の意識と、あなたの意識。そして「この意識が私のものだ」と感じています。

百人いれば百個の意識があるように感じます。

たとえば、ライブやコンサート、スポーツ観戦、団体やチームで何かに取り組んでいる時など、その場が盛り上がったり、全員の集中が一つの方向へ向いたりすると、バラバラだった人たちが一つになったように感じる瞬間があります。
まるで、それぞれの意識が一つの全体意識、一つの生命体になったようにです。

しかし、庭では、そんな順番で月の光は生まれていませんでしたね。

最初に月があります。月があると同時に、その光は庭全体へ届き、百個の水面に映っています。

百個の水面の月を集めて、空の月を作ったわけではありませんでした。

ここで月光を全体意識として考えてみます。

すると、全体意識は個人意識を足して作られるものではなく、最初から庭全体に届いていたものとして見えてきます。一つ目のバケツにも月の光は届き、百個目にも月の光は届いています。つまり全体意識ありきで、その中に個人というバケツがたくさん並んでいるわけです。

ライブやコンサートなど団体での一体感も、個人たちが力を合わせて全体意識を作ったというより、全体意識の中で、それぞれを「個人」として分けていた境界が、何かの拍子で薄くなった。

すると、もともとあった全体意識が強く感じられる、という見方ができます。

ここからは、この月の比喩をもう少し広げて考えてみましょう。

水面に現れる月は個人として経験される意識、庭全体へ届いている月光は全体意識、そして月そのものは、その全体意識さえ現れる以前の絶対意識として考えることができます。

パラトゥリクスでいうところの、「個の私と世界」「全体意識」「絶対意識」です。

月は、庭で起きている出来事によって大きくなったり小さくなったりしません。

誰かがこの世には「月などない」「いや月はある」と言っていても、その発言自体が月と月光の下で起きていますし、水が赤くなったことも、青くなったことも、ある時代に庭全体が濃くなったことも、

「月そのもの」にとってみれば、なんの影響もなく、庭で起きている意味や物語によって月自体が変わることもありません。

私の月、あなたの月

ここまで来ると、「私はいるのか、いないのか」とか「他人はいるのか、世界は幻想なのか」といった言葉も少し違って見えてきませんか。

もし一つのバケツが「私だけが本物で、ほかのバケツは全部幻だ」と言い始めたら、これは月の話からはずいぶん離れてしまいますよね。

庭にはちゃんと百個のバケツがあります。

色も違えば、経験も違います。それぞれの価値観や人生があり、周りから影響を受け、周りに影響を与え、役割を持っています。

月そのものや、月の光からすれば、月は一つです。バケツたちを照らしていて、そこに「私」と「私以外」という区別はありません。

だからこそ、月そのものや月の光には、この色に変えたいとか、この色は嫌だとかもない。

このバケツは可愛いから照らしてあげよう、このバケツは嫌いだから照らすのを止めよう、という選別もありません。

月は「私は◯◯だ」と主張しませんし、「私はここにいてあなたたちを守護している」と語ることもありません。

ただ、在り、無言で照らしている。

水面に映った月を見て「これは私の月」「あれはあなたの月」と分けているものは、心であって、月そのものではないというお話です。

そうすると、「他人」という区切りだけを消して「私」だけを残すことはできなくなります。

「私」と「他人」は、同じ境界によって同時に生まれています。月そのものには、その境界がありません。私が生まれる前から、月そのものは変わらずあります。

そして月そのものは、「私はいる」とも「私はいない」とも喋りません。喋るのは「心」です。

つまり、古来より霊性の聖者や賢者たちは、月そのものは喋れないかわりに、それをどうにか心を使って言葉で指し示してきました。

それもまた、月の光によって起きた恩寵の一つなのでしょう。

ただ、その言葉は月そのものを指し示すものであって、月そのものと同じではありません。

「月を指す指は月そのものではない」という言葉の意味は、こういうことです。

実現者の中には語らない人もいます。

いくら語っても、語れば月そのものからズレてしまうからです。

語る人も、言葉は非力で不完全だと知っています。

言葉にすれば誤解が生まれることも分かったうえで、それでも何かしらの手がかりになるかもしれないと、言葉を残してきたのでしょう。

そして、語ることも、語らないことも含めて、これらの動きさえ月光ありきの運動なのです。

月は、月としてありました

最初、自分は一つのバケツだと思っていました。

自分には自分の色があり、自分の人生があり、自分の意識がある。

そして、いつか月を知ります。

月を想い、月へ近づこうとし、再び水を澄ませようとしたり、その時期を待ちます。

ある瞬間、反転が起きます。

かつて自分そのものだと思っていたバケツを、今度は一つの対象として見ることになります。

そのとき、長い探究の末に月へたどり着いたように感じることもあるでしょう。

ところが、そこで振り返ると妙なことが分かります。

月光は最初から届いていました。

月を知らなかったときにも届いていたし、自分の水の色だけが世界のすべてだと思っていたときにも届いていました。

月はそれ以前にもそれ以後にもただありました。

だから実現とは、バケツが努力の末に月へ変身する出来事というより、最初から月と切り離されていなかったことを知る出来事に近くなります。

しかし、パラドックス的に、努力や苦心の末に、最初から月と切り離されていなかったことを直接的に知る、という流れもたしかにあります。

それほど、バケツの中の色や変化という世界は、酔わせて、没頭させ、虜にする魅力、魔力が強いからです。

実現者には、祈りが自然と現れることがあります。何か立派なことをしているつもりで祈っているわけでもなく、その慈悲も、その祈りも月の光が起こしている。バケツの水がやがて月を想うことさえ、月の光が起こしているように。

本当は「なんもしなくても、あなたはすでに月である」
これは「なんもしない方がいい」とか「何も求めない方がいい」という話ではありません。何かをしていても、何かを求めていても、汝はじめから月なり。

しかし、心というのは「なんもしなくてもいい」と聞けば、今度は「なんもしないこと」を努力し、「何も求めなくてもいい」と聞けば「何も求めないこと」を努力して、またそれを永遠に続けてしまう流れに陥りやすい。

だから「なんもしなくても、あなたはすでに月である」ということを、月は言葉で教えるのではなく、最初から変わらず光を届けつづけることで示しています。

というわけで、パラトゥリクスで書いてきた「恩寵は平等であり、途切れない」という話を、この庭では月の光として表しています。

百個のバケツの条件は平等ではありませんし、色も濃さも違い、置かれた場所も時代も違いますが、それでも月光は、特定のバケツだけを選んで届いているわけではないという事実のことです。

月が見えないほど濃い水にもそれは届いています。なので、月が見えたときに恩寵が始まったのではなく、見える前からすでにその中にいた、ということなんです。

月を想ったことも、月を探したことも、やがて自分が月だったことを知ったことも、地上で起きた出来事です。

地上では、それを「最後の恩寵」や「実現」と呼ぶのかもしれません。
ただ、そこで新しく月になった者が生まれたわけではありません。
月を探していたあいだも、迷っていたあいだも、水を澄ませようとしていたあいだも、月はずっと月としてありました。

最後に成立しなくなったのは、「月を探している私」という立場の方でした。

そして、これからも月は、月としてあるでしょう。1

  1. なお、ここで使っている「月」はあくまで比喩です。
    実際の月そのものを絶対意識や真理と呼んでいるわけではありません。
    古いアドヴァイタの教典『カイヴァリヤ・ナヴァニータ』にも、一つの月がいくつもの水面に映る比喩があります。今回はその古い比喩も参考にしながら、パラトゥリクスで書いてきた個人意識、全体意識、絶対意識の話まで広げています。 ↩︎
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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。真理探究、悟り、意識について書いています。

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