あなたが信頼するもの

ようこそ、パラトゥリクスへ。

私たちには「自分にとって信頼できる何か」が、誰にでもあると思います。

さて、この「信頼できる」とは一体どういうことでしょう?

ひとつ言えば、それは、時間が経っても大きくは変わらず、次も同じように在るだろうと見込める何かのことではないでしょうか。

基本的に私たちは、生きるという活動の中で、自分にとって、いつもそうであるものや簡単には変わらず、揺るがない何かを頼れるよすがとしますね。

歴史ではさまざまな価値観や秩序の崩壊と再生を学ぶけども、それでも私たちが「今生きている」ということは、次々に変わっていった流れがありながら、なんとか宇宙生命が維持され続けてきた流れも同時にあると言わざるを得ないわけです。

さて、意識とはなんだろう。

存在とはなんだろう。

あなたは少なくとも幸や不幸、上昇や下降を繰り返しながら、さまざまな進化を続けてきたことでしょう。

変わらないものを、なぜ信頼するのか

ところでなぜ、私たちは直感的に、

長く維持しているもの」に、説明しきれない敬意や驚きを感じたり、深い印象を受けるのか。

たとえば、蚊は平気で潰す人でも樹齢何百年、何千年の木を前にするとなぜかそこに特別な存在感を感じたりします。

また、近所の一角に新しいマンションが建っても、まあ私たちはほとんど気に留めませんが、笑

何世紀もの歳月を乗り越えて残り続ける建造物を、わざわざ飛行機に乗ってはるばる見に行くこともありますよね。

初心者が先輩やベテランに敬意を払うのも、それだけ長い時間を通過し、多くの経験を積み重ねてきたという事実そのものに、直感的な信頼を感じるからかもしれません。

ふらっと入ったお店でも「創業300年」と書いてあるだけで、そこに積み重ねられた歴史の重厚さを感じますし、人でも店でも、長い時間を通過してなお残っているものには、それだけで存在価値が生まれます。

不思議です。

まるで、我々はどこかで、不老不死、永遠、変わらないものを求めているようであります。

なぜ「速いこと」は奇跡になるのか

そして、「速さ」についてはどうでしょう。

人類の科学技術の進歩ってまさに、速さ、効率化、そして「物事が完了するまでの時間の短縮」じゃないでしょうか。

例えば、普通なら一晩かかる計算を同じ精度のまま数秒で終わらせる者がいれば、その者は天才と評されるでしょうし、

歩けば1時間かかる距離を、安全に10分程度で移動できるものを発明すれば偉人です。それは時短を超えて、人の生活圏そのものを変える発明です。

普通なら10年かけて身につける技術を、同じ水準まで1年で身につける者がいても注目が集まりますね。その者には何か特別な才能や方法があるのだと我々は考えるだろうし。

じゃあこの話はどうでしょう。

本来なら未来にならなければはっきり分からない事を、今の時点ですでに正確にズバリ言い当てることができたらどうでしょうか。

ここまでいくと、もはや「速い」という時間上の比較だけでは収まらなくなりますね。

そしてここから先は、私たちが「普通」と呼んでいる基準そのものを超える話です。

海を割って、その中を歩いて渡るとか、空中浮遊するとかテレポーテーションするとか、もはやそうなってくると、予知、超能力、あるいは奇跡と呼ばれるでしょう。

奇跡は、何と比べて奇跡なのか

しかし、ここで興味深いポイントがあります。

では、なぜ私たちはそれを「超能力」や「奇跡」と感じるのでしょうか。

そこには、当然、何かとの比較がありますよね。今回は、ここに注目してみたいのです。

仮に思考実験で、「あなたが地球上に存在する唯一の人間」だとしましょう。

そしてさらに過去の人類についてのすべての記録も、他人についての知識も、比較するための社会的な基準も何一つ持っていないと想像してみてください。

その世界では、「天才」「美しい」「神童」「奇跡的な才能」などといった言葉は、今と同じ意味では成立しなくなります。

その人一人しかいないのなら、自分が誰より優れているのか、誰より頭がいいのか、誰より美しいのか、性格や人格が善いのか悪いのか、持っている能力がどれほど普通なのか特殊なのかを測る尺度そのものがないからです。

私たちは、これまでに見てきた常識や、人間の平均的な能力、社会の基準などと比較することで、ようやく「これは普通を超えている」と判断し、そこに特別な名前や意味や価値を与えます。

一方で、比較は「他人との関係だけ」にあるものでもありません。

昨日の自分、これまでの経験、本来ならかかるはずだった時間、起こると思っていた未来。そうした過去の経験や、自分の中にある基準とも、私たちは絶えず比較しています。

つまり、他人がいなくても比較する動きは成立するわけです。

そう考えると、私たちは普段なら「あたりまえ」としてスルーしている出来事の中にも、見方を変えれば「奇跡」と呼んでもおかしくないものを、すでに何度も経験しているのではないでしょうか。

たとえば、治らないと思っていた傷が気づけば気にならなくなっていたり、「最悪、もう終わりだ」と思っていた問題がなんだかんだで解決したり、ずっと分からなかったことを突然閃いたり、たまたま出会った人とか、思いもよらない相手から助けや解決の糸口を教えてもらったり。

そういうのって、あまりにも自然に起きたから、改めて「奇跡」と呼ばなかっただけなのかもしれません。

つまり、「奇跡」と言っても、出来事そのものに最初から「奇跡」という名前が付いているわけじゃなく「あたりまえ」と比べて「これは普通じゃない」と驚き、そこで初めて私たちは奇跡と呼ぶのであります。

今回の「速さ」の話も同じです。

私たちの中に「本来ならもっと時間がかかる」という設定基準があるからこそ、「それを大幅に飛び越える速さ」が、特別なものとして立ち現れます。

そして、その設定基準がなぜ確固として生まれるのかというと、

私たちが日常で目にする多くの変化が、一瞬では完成しないからです。

この世界の動きは、ゆっくりとグルグルと螺旋を描くように展開していきます。

季節もグルグル巡り、人は生まれては成長し、世代が入れ替わり、文明も同じ場所へ戻ってきたように見えながら、少しずつ違う場所へ進んでいきます。

「長い、短い」「速い、遅い」あるいは「奇跡か、普通か」

こうした違いも結局は、何かと何かを比較することで生まれていると言えませんか。

私たちは良い悪い抜きにして、「比較」の概念に慣れ親しんでいます。

一つの都市を見ても、新しい建物が建ち、古い建物が壊され人が入ってきて、人が去っていきます。その内部では絶えず変化が起こりそれに伴ってさまざまな比較も生まれます。

私たちは日常の中でも、以前より便利になった、前より上達した、こちらの方が効率的、こちらの方が自分に合う、など比較を自然に行っています。そうした比較があるからこそ、違いや変化を認識し、選択したり目標を持ったりすることもできます。

これは良いとか悪いとかじゃなく、ただそうですね。

で、こうした比較の構造は、少なくとも現代社会を生きるうえで自然に現れます。主体と対象の分離の概念で成り立っている世界だからです。比較とは、「こちら」と「あちら」、「私」と「それ」という二つが現れて初めて成立します。

その中で、やりがいや達成感、喜びや悔しさなど、さまざまな感情や体験の違いを味わうことができます。

では、その時間も比較も、いったい何の中に現れているのでしょうか。

比較の中で、変わらないもの

実は、意識であるあなたは、過去の時代から未来の時代にかかわらず唯一ずっと変わらない存在そのものであります。

意識それ自体に、速いも遅いもありません。

たとえば、夜空そのものには速さがありません。

その夜空を、流れ星は一瞬で横切り、雲はゆっくりと流れていきますが、

「速い、遅い」と動いているのは夜空ではなく、その中に現れるものですね。

意識もそれと似ています。

意識は、動きや展開を可能にする時間の枠そのものを成り立たせている基盤です。

なので、意識自体は=ただ在ります。そして、意識から現れる動きが、物語を展開させ続けます。

都市の中を誰がどれほど速く移動しても、建物が建ち、建物が消えても、それらすべての出来事には、それが起こる「場」が必要です。

意識もまた、速さも遅さも、成功も失敗も、そのすべてが現れることのできる場なのであります。

ここでいうあなたとは、個人としてのあなたではなく、その個人も世界も同時に現れている意識そのものであるあなたのことです。全体意識、宇宙意識である、あなたのことです。

では、何を信頼するのか

私たちは実際、何を信頼しながら生きているのでしょうか。

家でしょうか、土地でしょうか、保有資産でしょうか、肉体でしょうか、仕事や地位でしょうか、人望や徳でしょうか、夢や野望でしょうか、家族や恋人や友人など誰かとの絆でしょうか、それとも、これまで積み重ねてきた経験や想い出でしょうか。

もちろん、それらが実際に私たちを支え、人生を彩り形づくる面もあります。

では、ここまで書いてきた私は、信頼するに値するものは「意識」だと伝えたいのでしょうか。

ところが、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないんです。

それはなぜというと、実は、信頼しようと、疑おうと、まったく興味を抱かなくても、あるいはとても強く興味を抱こうとも、「意識そのものは無条件に変わらずに在る」からです。

私たちは意識の起こす動きや、内容や展開にアップダウンし、喜怒哀楽や、さまざまな想念を浮かび上がらせます。天国的なものでも、地獄的なものでも、そのどちらにしてでも、変わらずに在りつづける意識の中で展開されます。

極端に言えば、火星に行っても、水星に行っても、たとえ刑務所の中でも、ノーベル賞の授賞式でも、平和と戦争の最中にも意識は在り、在るからこそなんにせよ体験できます。

じゃあ真理探究とは一体どういう立ち位置なのでしょう。

その意識を、どこまで自覚し、どこまで深く確かめていくかの探究がここで言う意味での真理探究です。

そこには、探究すること、問い続けること、実際に確かめようとすることで、自我との同一化という錯覚的な癖、動きを解いていく大切な意味があります。

そして、その探究さえも、何の前触れもなく突然始まるというより、そこに至るまでの意識の流れの中で始まっていきます。

意識があなたである、それならばこういう表現もできます。

それを強く求めたということは、その求めたものも、あなたを求めたという言い方ができるのです。

外側の世界は絶えず動き、変わり続けます。

その中でさまざまなものに支えられながら生きてきた者が、ある時から、その変化とともに「変わらないもの」にも自然と目を向け始める。

そのような準備が整ったとき、探究は努力して無理に始めるものというより、もはや探究せざるを得ないような動きとして起こってきます。

こうなると、外側にあるものが「変化する」ということ自体を悪とも言えなくなります。大局の流れはゆっくりで、小局のものは目まぐるしく移り変わる世界だからこそ、「ずっと変わらず在るもの」に対して関心や価値や信頼が向き始めるわけです。

つまり、変わることは、「変わらないもの」の価値を浮かび上がらせる装置として捉えることもできるわけです。

そう考えると、真理探究とは結局、シンプルな話で、「あなたが信頼するもの」が、変わり続けるものだけではなく、ずっと変わらず在る自己そのものにまで広がっていく過程のことなのかもしれません。

物語あるところに意識あり?

「イエス」

物語なきところに何がある?

「キリスト?」

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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。真理探究、悟り、意識について書いています。

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