イエス・キリストの生涯を真理探究の地図として読む ② 神殿に残るもの

前回の記事では、ヨハネから洗礼を受けたイエスが荒野へ入り、そこで三つの誘惑を受けるところまで見てきました。

荒野を抜けたイエスは、人々のいる世界へ戻ります。

人と話し食事をし、弟子たちとともに病める人々と出会いながらその後の生涯を生きていきます。

あなたはイエスといえば、どの場面を思い浮かべるでしょうか。奇跡を起こすところや、山上で人々に語るところ、最後に十字架へ向かっていくあの一連の場面。

そのあたりが有名だと思います。映画とかでもそうですね。

今回扱うのは、一見地味なお話。

イエスが神殿へ入り、そこで商売をしていた人々を追い出し、両替人の台をひっくり返す。

このシーンの話です。

「ふーん」で通り過ぎてもおかしくない場面です。ところがある人物の言葉を通してこの場面を読んだとき、私の中でここはかなり重要な意味があるのだと印象がガラッと変わりました。

バーナデット・ロバーツからマイスター・エックハルトへ

今から十二年ほど前の話です。

今で言えば一瞥体験のあと、私はちょっと「変わった体験ばかりしてしまう時期」に入っていて混乱していました。

ホテルで寝ていたら、なぜか自分がホテルになってそこで横たわって寝ている身体を見たり。(この話を延々やると体験推奨記事になってしまうので、この辺にしておきますが)

当時の私は「一瞥」という言葉も「探究」という言葉も知りませんでした。

自分に何が起きているのか気になって調べようにも、何をどう調べれば良いのかすら分からなかった。

ちょうどそんな時期に、ジュンク堂の精神世界のコーナーで何気なく手に取った「バーナデット・ロバーツ1」の本に出会い、なぜか惹き込まれました。

そのとき惹かれた理由としては、彼女が「神との合一」で話を終わらせず、その先で何が起きたのかをかなり細かく日常的な言葉でわかりやすく書いていたところでした。

読んでいるうちに、「私の知りたいことを語っている人を見つけた!」と思いました。

彼女自身も、本の中で自分に「自己喪失」の体験が起きたあと、必死で自分に何が起きたのかを調べたけどそれまでのキリスト教観想の文献には、自分に起きたことについて十分な記述がほとんど見つからなかった、と言っていました。

その流れで彼女は東洋の文献まで探したものの、十分な記述はほとんど見つかなかった。でもその中で「マイスター・エックハルト2」の言葉には自分の体験や境地と重なるものがあった、という趣旨のことを書いていました。

こういった流れで私も「マイスター・エックハルト」を知り彼の説教集にも触れたのです。

彼は中世ドイツの神学者、神秘思想家です。

そのエックハルトの説教に、聖書の「イエスが神殿の境内で商売をしていた人々を追い出し、両替人の台をひっくり返す話」が出てきました。

神殿から動物を追い出す

イエスが神殿の中へ入ると、そこでは牛や羊、鳩が売られ、両替が行われていました。3

イエスはそこで商売をしている人々を追い出し、両替人の台をひっくり返し、鳩を売る者たちには、それをそこから持ち出すよう命じます。

エックハルトは、この「神殿」を人間の魂として読み説きます。

神はその魂を自分に似せて造った。だから神は、その神殿を空にして、自分だけがそこにいることを望む、と彼は言います。

まず、イエスは神殿から牛や羊などの「動物」を追い出しました。

皆さんはこれはどういう象徴だと読みますか。

エックハルトは、人間の外的感覚が低い欲望に引っ張られると「まるで獣のようになる」という趣旨のことを語っています。その考えに沿えば、神は人間の魂を自分に似せて造ったとはいえ、その神殿の中に「獣性」が入り込むこともある、ということになります。

これは単純に欲望=悪という話ではなく、欲望には下位の欲望と上位の欲望と種類があり、獣性は下位の欲望を表しているというわけです。

神殿から商人を追い出す

次にさらにイエスはそこで商売をしている「商人」たちを追い出します。

商人とはどんな象徴でしょうか。

ここは街にいる一般的な意味の商人ではないというのは明白ですね。

エックハルトは、この商人たちを「神との間に取引を持ち込む者」として読み解きます。祈りや奉仕、断食、善行などを「神から何かを得るため」に行い、その見返りを求める人々です。神のために生きているように見えても、その奥に「その代わりに何かをください」という取引の心が残っている。商人とは、その心の象徴です。

ただし、ここは誤解なく。祈りや奉仕、断食、善行といった行為そのものを「取引だ」と言っているわけではありません。

問題になるのはその動機です。神そのものを求めているのか、それとも個人が何かを得るために神を手段としているのか。同じ祈りでも、まったく違う動機から行うことができます。

外から見ればどちらも立派な行為に見えます。だから普通、神を信じ、祈り、善い行いをしようとする人に向かって「あなたのその心は神と取引をしている商人だ」なんて、おそらく誰も言いません。

エックハルトは、そこまで踏み込みます。こうした徹底した離脱や神と魂についての大胆な教えを語り続け、晩年には異端の嫌疑を受け、死後には彼の発言の一部が教皇によって問題とされました。

当時の時代背景を考えると、このようにかなり危ういところまで踏み込んで語っていた人物です。

ところが、エックハルトのこの発言を見てみると、確かに、私たちはさまざまな正しい霊性のワークや修練をしようとする心のその一番奥に「自分が神から何を受け取れるか」が残っている場合が多くあると思います。

陥りやすいのは、真理探究、霊性の道、神との合一の探究が、いつの間にか「神が、個人の私の願いを叶えるための手段」になりやすいことです。

古来より、「何も求めずただ神だけを愛しなさい」「ただ真理だけを愛しなさい」と言われているのはそういう事かも知れません。

禅などでも、悟りを求める心そのものが、最後には執着になりうるという趣旨の教えがあります。

鳩まで外へ出す

エックハルトはさらにここから厳しくなります。

聖書では、追い出す相手は商人だけじゃないんです。イエスは鳩を売る者たちにも、鳩4を外へ持ち出すよう命じます。

エックハルトはここで、鳩の象徴についてまず触れます。

鳩とは、それ自体は善いもの、あるいは善いものへの執着の象徴として読みます。

ここは上位の欲望と言ってもいいように思えます。たとえば平和、上徳、慈愛の心です。

しかし、エックハルトは鳩を売る者たちに対する「イエスの態度」についても言及しています。

イエスは商人たちに対しては「追い出す」のですが、一方で鳩を売る者たちには、「これをここから持っていきなさい」と語ったというこの対応の違いにエックハルトは注目します。

イエスは鳩を売る者たちを厳しく追い出さず、穏やかに「これをここから持っていきなさい」と言います。エックハルトはこの鳩を、それ自体は善いものでありながらそこに自己への結びつきが残るため、そこに執着があるならば最後には退かなければならないものとして読んでいます。

取引の心や、下位の欲望のような、いかにも霊性探究の邪魔になりそうなものを外へ出す話は、耳は痛いけど、まだ私たちは何となく理解できるかもしれない。

けど、平和を願う心や徳、慈愛の心「神に近づいた」と感じさせてくれる美しいものでさえ、それらへの執着も最後には神殿から退いていく必要があるという話はかなりセンセーショナルでありかなり過激かもしれませんね。

「鳩は善いものだ。わかってる。否定しているわけじゃない。だけど、それも手放しなさい。神殿は空でなくてはならないからね」

当時私はここを読んで、大変驚きました。

私としては、神との合一というもの=「愛や平和に常に満ちている精神になる方向」だと思っていたからです。

ところが、エックハルトの言葉を通してイエスから私が受け取ったものは、「すべて手放していきなさい」という方向。

まさに完全なる「空」の方向です。

それは足し算じゃなく、完全なる引き算でした。

いや、掛け算とも言えるかもしれません。0に何掛けても0というような掛け算です。

神以外、たとえ鳩のような良いものでも素晴らしいものでも、やさしく諭し、手放していく。

増やすんじゃなく、空にしていく。

手放していく。

剥がしていく。

玉ねぎの皮のように。

ヘビの脱皮のように。

あ、これなら私に合ってる

さて、当時私はとても混乱しました。

なのに不思議と「そんなこと簡単にできない。無理。でも、これきっと・・本当のことを言っている。それだけはなぜかわかる」という不思議な共鳴がありました。

言葉の意味も、それを食べ、噛み砕いて消化することも、理解さえできていたわけではないのに、なぜかその言葉が指し示している方向には妙な納得を感じたのです。

また、実のところ「何もかも外へ出していく」という話は、実に私自身の人生とも重なりました。

私は人生で愛や光、平和など鳩的なもの、そういう種類の喜びを人生の中で何度も求めました。願望も欲もまあ強いタイプだったわけです。

しかし、不思議とそういうのをどうにか手に入れても、なぜか今度は自分から、また人生の流れによって「手放しが起こってしまう」という自分でも不可解な流れがよくありました。

当時は「私は究極のアホなのか?なんで得て、自らそれを捨てたくなってしまうんだろう」と悩んでいました。

「マッチポンプじゃないか。子供が海辺で砂の城を何時間もかけて作った挙句、自ら壊すのとほとんど変わらないじゃないか」

と思いました。笑

そういう出来事が何度かある人生でしたので、「神殿の中を鳩だらけにしなさい。愛を増やしなさい。平和を増やしなさい。光を、喜びを、増やしなさい」

と言われたらそれはそれで「うーん、できるかな・・」と困ったと思います。

ところが、エックハルトの言葉を読み、イエスのこの行為の意味が真実それだったとしたなら、

「何もかも神殿から追い出しなさい」ならもしかすると気質的に自分に向いているかもしれないと思いました。

そして、実際私はだいぶ気楽になったんです。

「大丈夫。今までもそれでよかったし、これからもそれでいいんだよ」と言われているように感じたものでした。

今エックハルトをどう読むか

私にとってマイスター・エックハルトは異端者というより恩人です。

当時、異端の嫌疑を受けた人物ではありますが、きっと自分だけじゃなく参考になる人もいるはずだ、と信じています。なので彼のメッセージの本質は変えずに私なりに咀嚼しながら汚名返上に少しでも一役買いたいという思いで、ここからさらに掘り下げてみましょう。

ここからは、エックハルトの読みを踏まえたうえで、私自身が今この場面をどう読んでいるかを書きます。

まず、この「動物」を私は「動く物」⇨「動くもの」として読んでいます。

身体も心も、五感や感覚器官も、思考も、すべて変化し動き続けるものです。

そして問題になるのは、その「動いているもの」との同一化です。

「私とは、この動いているものである」

そう思っている状態ですね。

「五感を通した世界」と、「五感の世界を越えた世界」そこが霊性と物質世界の大きな線引きという話として見た方が私はしっくりきます。

また欲望について上位、下位と分ける話は確かにわかりやすく個人が生きる上でもためにはなると思いますが、同時に何であれ起こるものは潜在的な傾向や気質、個人の流れや世界の流れによって、上位も下位も含めて起きる時には起きてしまうのも事実です。

なのでここは単純に下位がダメだから上位を目指すというよりも、その欲望は誰のもの?というところにも注目するべきだと感じております。(参考記事 欲深い人は悟れないのか

それから、「最初から何も求めず、ただ神や真理だけを求めなさい。それ以外は追い出しなさい」と熟れ切った探究者限定の話にしてしまうと、やっぱりほとんどの人には食べにくい、消化しづらいメッセージになってしまうと思っていますので、ここに付け加えるなら、

最初に神を求めるとき、多くの場合は何かがくっついていることは当然だということです。

苦しみから救われたい。幸せになりたい。平和になりたい。真理を知りたい。自分を変えたい。

「神を求める」の後ろに「何々のため」がついているのがやはり人情というものです。笑

それでもそれが、はいダメということで終わらない救いの視点があります。それが恩寵です。

なぜならどんな理由や動機にせよその火を絶やさず神や真理を求めていると、不思議なことに火そのものが余計な不純物を少しずつ燃やしていきます。

最初は「これが欲しいから神を求める」だったものが、いつの間にか理由そのものを失い、「ただ神を求める」へ自然と深まっていくものです。

では、なぜそんな都合よくうまくできているのか?なぜそのようなことが起こるのか?

その火を最初につけたもの自体が神だからです。

最初は本人にそれが神への渇きだと分からないかもしれません。全然別の願いでも良いんです。苦しみから救われたい、人生をどうにかしたい、お金が欲しい、モテたい、夢を叶えたいetc。

そんな形から始まったとしても、1ミリでも神や真理に関心が向くことが火であり、火は火です。燃え続けるうちに、その火を覆っていたものを自然に焼いていく流れになる。

キリスト教では、こうして人の内側に働きかけ、神へと向かわせるものを「聖霊の働き」や「恩寵」として語ってきました。

人間が頑張って、自分の欲望を一枚一枚はがしながら完璧に純粋な人間へなっていくというより、神を求める火そのものに焼かれて、いつの間にか「神から何を得られるか」から「ただ神を求める」へ変わっていく。

それが正しいからそうしよう、エックハルトやイエスが厳しく言うからそうしようじゃなくて、なぜかハートがそれに惹かれて関心が勝手にどんどん湧いてきてしまう。

私はエックハルトのイエスの商人の話を、そんな流れとして読んでいます。

無理やり追い出すというより、それまで神より優先されていたものたちが、神の方が優先されるようになることで、だんだん立場や権限を失っていくような構図です。

「空」は怖くない

そして、じゃあ何もかも追い出したあと、神殿には何が残るのでしょうか。

ここが重要です。

ここを知っておかないと、追い出した後の「空っぽ」を私たちは「とても恐ろしいことになるに違いない」と受け取ってしまうからです。

私たちが思っている以上に、「空」や「空っぽ」とは心にとって恐ろしく思えてしまう。

例えば人はこういう言葉に傷つきます。「あなたの存在って無だよね。いてもいなくても変わらない。あなたは何者でもない。あなたの特徴?空っぽ」友達や知人にこう言ったら、一気に関係が悪くなること間違いなしでしょう。笑

それほどまでに、心は「私の〇〇」から「私」を外したくないものです。自分=空っぽ。これが嫌だから、何者かになろうとしたり、何かを持とうとしたり、何かで自分を埋め続けることが可能になるかもしれません。

よくエゴとは幻想であるという言葉がありますが、本当にそれを認めてしまったらまるで自分が幽霊のように思えて恐ろしくなるとエゴは前提としてそのようなイメージしています。

しかし、空っぽは「怖い」ということこそ幻想だとここに書いておきます。

空はまったく怖くありません。なぜなら、これまでもずっと、すでにその空が真の自己そのものだからです。

エックハルトがこの神殿の話で見ている空は、神殿から商人も鳩も退き、本当に空になったとき、そこには神がいるということを伝えています。空っぽになったから、すべてが失われるわけではないということだけ、どうか記憶しておいてください。

むしろ、空になったあともいろんなことは起こります。

取引が起こることもあるでしょう。売買が起こることもあるでしょう。平和が起きることも愛に満ちることもある。喜びも悲しみも起きるし、神秘的な体験がやって来ることだってあるかもしれません。

以前は「あなた個人」がそれらと強く結びついていました。あなた個人が愛に満ち、喜び悲しみ、神秘的な体験をしました。なので、うまくいけば気持ちは高まり、まずくいけば気持ちは下がります。

しかし、それがこう変わります。

それらは誰かのものじゃなくなります。束縛や限定や条件を通した個人的なものじゃなくなるわけです。

誰のものでもない愛、喜び、悲しみ、神秘が現れるのです。

「それ自身」が「それ自身」として「それ自身」のために直接体験されるのです。

そこには、捕まえて「これは私の平和だ」「これは私が得た愛だ」「私はこの境地まで来た」と商品棚に並べる商人はいません。

鳩が飛んでくることはある。ただ、もう鳩は売り物ではない。

神殿が空だからといって、愛も喜びも二度とやって来ないわけじゃないのです。

鳩が来たら、鳩がいる。飛んでいったら、いなくなる。笑

それを捕まえて、自分の所有物にしておく必要がない。なぜなら、それもあなた、これもあなたなのだから。

個性はそれぞれ違っても、すべてが一つのあなたという神殿の中に現れている。

そう考えると、空っぽという言葉は、何も存在しない寒々しい場所ではなく、何かを必死に集めて自分を埋め続けなくてもよくなった神殿です。

「空っぽは、そんなに怖いものじゃないよ。」

そのことを知っていたからこそ、そしてそれを示すためにも、イエスは何もかも追い出してみせたのかもしれません。

最後に

なぜ神と取引しちゃいけないのか?

それは、あなた自身がすでにそれだから。

それなのになぜそれを「欲しい」「得たい」と求めるのでしょう。

「それではない」と思い込んでいるものの方を、「自分」だと固く定義しているからです。

私は勝手ながらもこの話に、こうも付け加えたい。

神殿の中で、神殿を探している者に対しても、鳩を売る者たちにそうしたように、いや、それ以上に穏やかに、優しく。

今度は言葉さえ使わず、その者が来た場所を指差して、そこへ帰ってもらいなさい。

というわけで、私にとってはマイスターエックハルトは異端者ではなく、イエスの行動や聖書を理解する上で有力な恩人の一人となったのでした。

イエスの話は③に続きます。

  1. バーナデット・ロバーツは、カトリック信者として長く観想生活を送り、その後、神との合一をさらに越えて「自己そのものがなくなる」という体験について書き残したキリスト教の観想者です。代表的な著作に『自己喪失の体験』などがあります ↩︎
  2. マイスター・エックハルト(1260年頃〜1328年頃)
    中世ドイツのキリスト教の修道士、神学者、説教者です。「マイスター」は名前ではなく、神学の先生として与えられた称号です。
    彼は、神と人間の魂の関係や、執着を手放すことについてかなり深く語りました。その内容は当時の教会から問題視され、死後には彼の教えの一部が教皇によって取り上げられています。
    そのため私も最初は「異端とされた人物を記事で扱って大丈夫だろうか」と少し迷いました。ただ、調べてみるとエックハルト本人が正式に「異端者」と宣告されたわけではありません。私自身、彼の言葉に助けられたところが大きかったので、今回取り上げています。
    ↩︎
  3. 『ヨハネによる福音書』(2章13〜16節)。なお、ここで取り上げるエックハルトの説教は『マタイによる福音書』21章12節を起点にしています ↩︎
  4. ちなみに鳩といえば前回の記事で扱った洗礼では、神の霊が「鳩のように」イエスの上へ降ってきます。洗礼のとき、神の霊は売買されていません。イエスが何かを差し出した代わりに与えられたわけでもなくただ降ってきた。ところが神殿では、鳩まで売られています。聖書上「同じ鳩」という話ではないですが、この二つの重なりも面白い。 ↩︎
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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。真理探究、悟り、意識について書いています。

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