存在しないものを、どうやって消すのか

ようこそパラトゥリクスへ。

これを書いている、現在の時刻、午前2時の丑三つ時にこんばんは。

さて、「エゴ」や「自我」という言葉がありますね。

この言葉は「心理学的自我」として広まり、日常などで使われる意義はわかります。

しかし、ある時からスピリチュアルや霊性探究の文脈にも入ってきました。

そして私の知る限りでは「エゴ」や「自我」は、探究の中で「なくすべきもの」「超えるべきもの」として語られる場合がとても多くあります。

そのように言わんとすることは理解できますが、この言葉を扱うとき少々注意が必要です。(たしかに、このサイトの記事でも説明のためにエゴ、自我などとサラッと使ってしまうのですが・・)

なぜ注意が必要かというと、

赫塚さんは、どうやって生まれるのか

例えば、「ある公園のある木の下に、幽霊が出る」という話を私が作り上げたとします。

もちろんこれは思考実験での架空のお話です。

このような話を作って人に話せば、最初ほとんどの人がスルーするか、「へえ、そうなんだ」くらいで終わると思います。

しかし、私はとても強い情熱をもって、その話を伝えまくるとします。

膨大な時間をかけて取り組むとします。

すると、ある時に「あれ、ほんとだ。木の下に影があるのが見えた」と言い始める人が現れるかもしれません。

少しずつ、少しずつ、幽霊の存在が具体的な事例として挙がりはじめます。

そしてそのタイミングで私は「その幽霊が現れて、自分の名前は赫塚(あかつか)だと名乗った!!」と宣言します。

それだけでは終わりません。私はさらに宣伝用のビラまで作り、知り合いにも協力してもらいます。真っ赤なハッピまで用意して拡声器まで持ち出し「この幽霊の名前は赫塚さんです!あの木の下には赫塚さんがいます!」と、なぜか町おこしのような勢いで赫塚さんを売り出すための活動をするとしましょう。

こうなると、やがてその幽霊は人から「赫塚さん」と呼ばれるようになるわけです。

ここで注目していただきたいのが、たとえ実体のないものでも「名前という概念」が付くことによって、想念の中で、煙のような映像的イメージから、存在としての説得力が段違いに増すわけです。

そうなると、誰かがその公園を通るたびに、自然とその存在が脳裏に浮かびやすくなります。

「あの赫塚さんがでるのって、この公園だっけ?」みたいな感じです。

また、その幽霊に関して「公園を守ってくれているもの」「守護的なもの」という話なら心優しい誰かがお供えしてくれたり手を合わせてくれるかもしれませんが、

「それは排除すべきもの」「諸悪の根源」「私たちを苦しめる悪しきもの」と聞き、根づいたら、怖いのでそれを忘れよう払いのけようとするでしょう。

しかし「かゆみは掻けばさらに掻きたくなる」と言うように、人が「忘れよう」「考えないようにしよう」とした瞬間、どんどん「赫塚さん」の存在は「確かなもの」に形づけられ、やがて深いところに浸透していきます。

夢にさえ赫塚さんの影響が行き渡るかもしれません。

エゴを消そうとすると、何が起きるのか

さて、

ここでいうエゴや自我というものは、はじめから存在するものではありません。
なぜなら想念だからです。当然、赫塚さんも想念です。

「エゴがあるから苦しい」「エゴをなくさなければ」「まだエゴが残っている」

とやっているうちに、存在しない赫塚さんの除霊を一生やるのと同じことになります。

つまり、これはマーヤの特性なのですが、「幻想を消そうとすることで幻想を維持する構造」があるわけです。

エゴという固体が心の中に住んでいるわけじゃないのです。

負の感情と言われているものがあります。怒り、悲しみ、嘆き、嫉妬、恐怖が起きる。「自分はこういう人間だ」という思考が起き、感情をともない身体感覚が起きる。

そこへ後から「これはエゴだ」という名前をつけます。

すると今度は、「エゴを観察している私」が生まれます。

つまり、

 

この中に、

「エゴ」

が生まれた瞬間、その水面下では、

「私(見る側)」|「エゴ(見られる側)」

という構図が同時に成立しています。

「エゴ」という対象だけが単独で生まれるのではなく、その水面下では、それを見ている「私」という想念も同時に立ち上がっているわけです。

「今日はエゴが強かった」「最近エゴが薄くなった」「まだエゴが残っている」

と、言ってみれば「赫塚さん」の目撃情報を自分で収集するように「エゴ」の証拠を自分で集め始めるわけです。

「あ、今の発言エゴっぽかったな」「さっき嫉妬した。まだエゴがいるな」

みたいな感じで。

エゴをなくそうとしている「私」は誰なのか?

これがこの記事の本丸です。

エゴ退治をしている「私」まで調べてみたら、それもまた「思考・記憶・感覚」によって成立しています。

「赫塚さんを除霊している除霊師」まで、「同じ想念の側にいた」という妙なことになるわけです。

除霊師まで関係者でした・・。

「自己」というのは「私」と思う前に存在しているんです。

「私」が「エゴ」をなんとかしなくちゃ!と戦う前に、自己はただ在るんです。

ということは最終的にどうすればいいのか?

そこが聞きたいですよね。

大丈夫です。その答えをここでハッキリとお伝えします。

それは・・

あ、今その答えを書こうとしたら、赫塚さんに「やめろ」と言われてしまいました。

私は赫塚さんの「やめろ」という声を消さなくてはなりません。

まずいですね。

除霊しないと。取り除かないと。変えないと。

あれ、でも変ですよね?

赫塚さんは実体ではありませんでしたよね?

私が数分前に作った話です。

実体がないなら、消す必要ないですよね。

そう思いませんか?

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この記事を書いた人

パラトゥリクス管理人。真理探究、悟り、意識について書いています。

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