問い
あなたの言葉は時々、言っていることが矛盾しているように感じます。
ある記事では悟りや真我を求めて探求することには意味があると書かれていて、また、人生で起きたことや、出会った人や苦しんだことにも意味があってすべてがつながっているように書かれることもあります。
でも探求することや悟りや真我の必要性を否定的に書かれている印象を受けることもあります。
あなたの言う「絶対、超越」とは何なのでしょうか。
そしてあなたにとって「二元」とは何なのでしょうか。
応答
確かに、私の発言や表現には矛盾しているように見えるものがあります。
そして、これは世界に対してもそうです。私は世界を愛しています。同時に、世界を壮大な心の作り出した物語として見ています。さらに世界に対して完全に無関心どころか、たった一度たりともその存在を感知したことがありません。
こういうと、もう矛盾ですね。つまり世界は美しい素晴らしいという人の気持ちもわかりますし、世界は醜い苦であるという人の気持ちもわかります。それこそ二元だからです。
ただ、絶対には「感動」も「作り物」という区別そのものもありません。そこは一切の微細な波さえ、ありません。
表現が矛盾して見えるのは、表現の立つ場所が変わるからです。「個と世界」「意識」「意識以前、絶対」で変わります。そして、この変わる表現によって、あなたの今いる立ち位置が原初である真我を思い出す方向へ少しでも戻れば、私個人としては喜びと感じるわけです。
それでこの話を紐解くには、まず私が「二元」という言葉をどう捉えているのかを書いた方がいいと思います。
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私にとって二元とは、「不変に降伏するまで、変化するものにしがみ続ける時空内の幻影劇」です。
時間や空間というものが、絶対である私、同時に「真のあなた」にとってはありえないものであり、異質なものです。
あなたは「絶対、超越とは何なのか?」と問いましたが、それは、真のあなたのことなんですよ。
そして、その異質な幻影の中で、このようなやり取りが意識の中で起きているわけですね。
さて、心の話をします。
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心、想念が動き始めると、変化するものの中に「これが自分を完成させてくれる」という対象が浮かび上がります。
二元というと、二つに分かれた何かを想像するかもしれませんが、その実態は心であり想念です。心は心電図のように、二つのあいだを絶えず行き来します。
その運動が続いているあいだ「運動が始まる以前にあるもの」よりも「運動の中に現れたもの」へ求めている答えを探し続けます。
その求めている答えはさまざまですが、私個人としては昔から人の話聞いていると、その根を辿って結局は幼少期や、家庭問題のヴァーサナーへ行き着くことが多くあります。
三つ子の魂百までじゃないですが、私は幼少期や家庭問題というものを、二元の世界観が投影される縮図のように感じています。
そして真理探究や解脱、涅槃の話も、実は多くの人にとっての関心はその心の完成です。「心の平和の維持」と言ってもいいかもしれません。人生は心であり、心は人生です。
はじめ心は「心以前への関心」より、心の内部を完成させるために動き続けます。で、完成はするのかといえば、完成するというより、その「完成しなければならない」という運動自体がだんだん弱くなっていきます。
そしてやがて、それまで本当だと思っていた同一化そのものから自由になろうとします。そこで悟りや真我、霊的な探究が人生に現れるのです。こうした運動全体を、私は二元と表現しています。この二元の中では当然、快楽と苦痛のような相対的な現象が交互に起こります。
しかし、その繰り返し自体が、やがてこのシステムを見抜かせ、それにより心は「心の平和の維持」から「心以前への関心」に方向が転換していきます。
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私は、悟りや真我、霊的な真理探究を提示しています。
そして、探究は最終的に「絶対」への回帰に向かいます。そこが不変の自己自身だからです。
伝統や宗教や神話、真理の愛、霊性の道、私はこれらの世界観にあなたが深まることを喜びます。これらへの関心が二元を超えるためのスタミナになるからです。しかし同時に、一般的な世界観の中にも、二元を超えるためのスタミナになるものがあります。
ポイントは二元を超えるために、二元を使う意味があり、最終的には二元の中で物知りな心になるのではなく実際に超える、ということです。
超えている「それ」は、そもそも二元を知りません。でも二元の内側にいるあいだは、「それ」が二元を知らないということさえわからない。だから二元を使うわけですね。
ここをまとめると「世界は探究を提示します。しかし、その探究が最後に指し示すものは、世界を含めたあらゆるものを超えています」
お分かりですか?方向的にはこうなんですが、このこと自体にもうパラドックスが生まれています。
じゃあ二元を知らない絶対とは何か?
これを知るうえで大きな問題が二つあります。
一つは、その超えることが時空の中で起きる現象ではないということです。もう一つは、超える直前までは本人の深まりとして進むことができても、超えることそのものには、その人の意思も、理解も、概念も、知識も、あらゆる努力も、関係がないということです。
だから私は、「超えるための方法論」の話よりも、すでに超えているあなたが、なぜさらに何かを付け加えようとしているのか、その話を聞く方が意味があるように感じていますし、そのあなただと思っている想念の動きはどこへ向かっているのか?何を求めているのか?そういった問いを提示する方が、話が早いと感じています。
絶対への回帰として見えるプロセスは、人によってヴァーサナーが違うように道も無数にあり、超える直前までどのように深まっていくのかにも無数の違いがあります。だから瞬間瞬間によって出る言葉も表現も変わるんですね。
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あなたが幼稚園の先生だとします。
お昼寝の時間が終わり、十人の園児が起きて、それぞれ夢の話をします。
ある子は悪夢を見た。ある子は楽しい夢を見た。先生が伝えることは一つです。
「それは夢だったよ」
伝えることはシンプルです。けど言葉や順番や表現は相手次第のあの手この手になるでしょうね。
「じゃあ夢とは何?夢じゃないものって何?」
そういうわけです。
そのため、このサイトでは矛盾した表現が出てきますし、今後の内容もシンプルに見えるかも知れないし複雑に見えるかも知れません。場合によっては異端や冗談、あるいは堅苦しく重苦しいものに見えるかも知れません。
毎回同じことしか言わなくなるかもしれないし、毎回違うことになるかも知れないし、変な題材ばかりの奇妙な世界観になるかもしれません。笑
それは申し訳ないけど流れです。
一つ言えることは、パラトゥリクスは個、世界のこと、意識の描写、絶対の描写と視点がいくら変わり、パラドックスがつきものだとしても、
私とかあなたとか世界とか、そういった概念が始まったことがない点を指し示しているということです。
簡潔にまとめると、あなたは実際、ずっとずっとパラドックスを超えています。


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