問い
純粋意識や、私は在るにとどまろうとしても、思考や想念が次々に起こるんです。
そのたびに意識が個人へ戻り、また束縛されたように感じます……。
実現には、思考が完全に止まる必要があるのでしょうか。思考が止まらず起きている限り、純粋意識に定着していないということですか?
応答
まず、思考が起きること自体は、全然束縛じゃないですよ。
思考が起きた時に「また思考がたくさん現れたからこれを消さないといけない」とか「無思考にならないとダメだ」と、その思考を邪魔なものと見なして取り除こうとするならば、その場合そう動きつづけてる「癖」の方が束縛になっちゃいます。
純粋意識そのものは、無思考でただ在ります。だけど、世界は「動き」によって成り立っていますよね。
その動きで成り立っている世界の中で、無思考を求める動きが、いまあなたの中で動いているわけです。
純粋意識の中に現れる世界の動きは、どれも自然な運動として起こるので、言ってしまえば動きが起こること自体はどうしようもないんです。
呼吸が起き、時間が経って昼から夜になる、北の方角から強風が吹く、小雨が降る。
それと同じくらい、思考も自然発生で起きます。
思考の内容物を、あなたは何兆個もある選択肢の中からチョイスしたわけじゃありませんね。その思考内容じゃなくてもよかったのに、その内容が現れる。
「なぜ私は、この内容の思考をしてしまうんだろう?」と考える。その後、その思考内容に対して「良い」「悪い」と判断することもまた、思考として現れます。
しかし、真我実現の方向の話として(呼び名はちがう用語でも良いですが)お伝えするならば、
重要なポイントは「あなたの正体は純粋意識」ということなんです。
あなたという「主体」は、純粋意識。あなたはずっーと無思考なんです。すでに。
ただし、ここでいう無思考っていうのは思考が一切現れない状態という意味ではありません。
思考が現れていても、純粋意識そのものが思考しているわけではない、ということです。
「私」という第一想念を中心に、思考は計画をし、分析をし、集めて、判断して、識別していきます。
まず、第一にそうした思考の能力はとても重要です。生きる上でも、真理探究においても同様に必要な武器になります。
たとえばある日、あなたのもとに友達から電話がかかってきて「新宿を無思考で歩いていたんだ。で、気づいたらボッタクリバーに捕まって、いま預金通帳を広げてるんだよね。でも無思考ではいられてるよ」と言われたら、
「いや、そこはちゃんと考えようよ」と言いたくなるでしょう。
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しかし第二に、そうした思考の運動も自然発生です。
どんな思考や反応が現れるかは、それまでに形成されてきた傾向や、まだ表面には現れていない想念など、さまざまな条件の影響を受けます。
たとえば、同じ言葉を誰かから言われても、腹が立つ人もいれば、気にしない人もいますよね。同じ出来事が起きても、そこから何を考え、どう反応するかは人によって違います。
その時に現れる思考や反応には、それまでに形成されてきたその人の傾向が表れます。
だからこそ、思考を良い内容のものに変える努力や、コントロールする方法、思考自体の表れを沈ませ静かに観ることにも、その後に現れる思考や反応の傾向を変えていくという意味では効果があります。
じゃあなぜ、効果がある可能性があるなら、そのアプローチだけを私が常々勧めないのかというと、そのアプローチをしようと思ったことも、その方法を選んだことも、それを実行すること自体もまた、思考と同じように自然発生的な運動だからです。ここでパラドックスが生じます。
自分が思考を変えようとしているようで、その「変えよう」という思考自体もまた自然に現れているわけです。
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夢を見ている時を考えると分かりやすいかもしれません。
夢の中で、知らない街に迷い込んで、帰り道も分からず、雨まで強くなってきたとします。
「なんでこんな場所にいるんだ」「早くここから出たい!」と夢の中のあなたは思う。
でも、眠っているあなたが事前に「今日はこの街を出そう」「雨を降らせよう」「そのあと夢の中の自分を焦らせよう」と、一つずつ決めたわけじゃありませんよね。
それでも、街も雨も、そこから逃げようとしている夢の中のあなたも、全部その夢の中に現れています。
思考もこれと似ています。「この思考をやめたい」と思った、その「やめたい」まで含めて現れている。
つまり、思考も、それを変えようとする思考も、どちらも同じところに現れているということです。
純粋意識の中に現れているとも言えるし、純粋意識そのものは何もせず、ただ在るだけとも言えます。
私も長い間、思考や心の状態を変えるアプローチを懸命に行ったことがあります。
だけど、そのうち私は、このやり方ではエンドレスに続くと分かりました。
なぜなら「夢の内容を変えようとしている私は誰なのか」という、「私」という第一想念を見過ごしたままのアプローチだったからです。
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そのためパラトゥリクスでは、夢の内容をどう変えるかのテーマより「私の思考」「私の心」「私の問題」としている、その「私」の方を観ていくことをメインテーマとしています。
純粋意識であるそのあなたの中に、思考という現象が、ただ現れては消えていく。
問題は、思考が現れたこと自体ではなく「これは私の思考だ」とか「この思考によって私は純粋意識から離れた」と同一化することが束縛なんです。
しかし、その同一化や束縛さえも自然発生で起きた現象です。
なので結論は、思考を止めようとする動きが起きても、それをさらにどうにかしようとしなくて大丈夫です。
むしろ、すでに実現している真我を思い出すなら、思考を使って思考の流れを辿り「自分がどの思考と同一化しているのか」を調査し、把握することが可能です。
だいぶ長くなってしまいましたが、まとめると、思考は個人として生きる相対的世界では、考えたり、判断したり、計画したりするために必要です。
そして真理探究においても、自分が何を「私」として握っているのかを調査するためにも使えます。ポイントは、思考が多いか少ないか、良い内容か悪い内容かだけを見て、純粋意識に定着しているかどうかを判断しなくていいということです。
観るところは、思考そのものよりも、その思考を「私の思考」として握っているものの方。
思考が現れたことを知り、思考が消えたことも知っているものは、思考と一緒に現れたり消えたりしているでしょうか。
思考が起きても消えても、純粋意識はそのまま在ります。


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