映画館の暗闇の中で、何人かのすすり泣く声が聞こえる。
スクリーンの中では、一人の主人公が悲しみに打ちひしがれている。
私はその主人公のことを知らない。実際に会ったこともないし、一言も喋ったこともない。物語の中にしかいない人物だ。
ハンカチを取るため上着のポケットを探りながら、私はこう思う。この感情は、本当に今、この映画の中で生まれたばかりのものなのだろうか。
私たちは「起きたこと」をその場ですべて、残さずに感じきれるとは限らない。悲しいことがあっても、明日は待ってくれない。大切な何かを守るために、自分の涙を後回しにすることだってあるだろう。
心はそんなとき、あふれかけた感情を胸の奥へ戻す。私たちが毎日を生きているあいだも、その感情は消えず、感じられる時をずっと待っている。
映画や小説、音楽といった作品の中では、私たちは現実から少し距離を置いて、その怖さや悲しみに近づける。
画面の中が恐怖で満ちても、たとえ大火事になっても、こちらまで焼けることはない。
だからこそ、そこでなら普段より、向き合って味わえる。それで、気づけばこうやって没頭しているのだ。
そんなとき、予想していなかった感情が、奥から滲むように溢れ出る。
現実で優しくされると、ついお礼やお返しのことを考えてしまうが、物語の中の優しさなら、ただ受け取ればいい。
感じられずにいた自分の中の感情も、気づいてもらえる時を待っていたかのようだ。
泣いているとき、私たちは「今、自分は悲しい」と知っている。悲しみを感じながら、悲しみに気づいてもいる。悲しみが自分の内側のすべてを覆っているように感じるときも、悲しんでいることを見守っているものはいつも静かだ。
私たちは、感情の中にいながら、感情を見る力を少しずつ育てていく。
感じられずにいた気持ちが動き出し、心の奥の詰まりが少しゆるむ。それをカタルシスとか、心の浄化と呼ぶ。
映画、アニメ、小説、ドラマ、音楽、絵、芸術。そうしたものは、私にとって、探究の暗い時期を照らしてくれた、優しい光だった。
恩寵は、特別な場所だけにあったわけでなく、何気なく開いた本や、たまたま流れた一曲の中にも潜んでいた。
私たちは、自分でその作品を選んだと思っている。
だけど、本当は、感じられる日を待っていた気持ちのほうが、その作品を選んだのかもしれない。


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