問い
お金や成功ではなく、真理を知りたいという強い欲求があります。
この欲求もエゴから生まれているの?
それとも、本当の自分に呼ばれているの?
応答
ふつうは最初、両方が混ざっています。
真理をまっすぐ求める気持ちも嘘じゃなく生じています。根源的な苦しみをどうにかしたいとか、真理を理解することで安全圏に至りたいと思うのは欲求として自然です。
というか、実現したいのは、不変で不動の幸福、至福がそこにあるって匂いがしているからです。その嗅覚は真相的に言えば正しいんです。
実際に至れば「幸福、至福」といった表現自体は変わりますが、そこに至ろうと求めているときはそのような心境でしょうし、とても自然。
けど、あなたのいうとおり、エゴの動きが混ざることはデフォであります。
エゴが求めているときの心は、それを「永遠に安心していられる私」や「ずっと気分よく生きられる私」として想像します。
だけど、実際に近づいていくと、幸福や至福という言葉の意味そのものが変わっていきます。
そこで起こるのは、何があっても気分のいい「私」ではなくて、この「私」自体が、問いにかけられていきます。笑
例えば、「一匹の子犬が高い木の枝から降りられなくなっているところ」を想像してみてください。
どうやって登ったのかは分からないけど、なぜか絶妙なバランスで枝に腹をくっつけて少しくつろいでもいます。
下では飼い主が手を伸ばしています。
子犬も本当は地上へ降りたい。だけど、手が近づくと怖くなって、枝を強くつかんで奥へ逃げる。
「おい、ジョン!地上の方が安全だ」と言葉で説明しても伝わりません。笑
無理に捕まえようとすれば、落ちるか、驚いてもっと高いところへ逃げるかもしれない。
飼い主は慎重に、冷静に、待ちながら少しずつ近づいて、子犬が暴れないところで身体を支えます。
地上へ降りたい気持ちと、今いる枝を離したくない気持ちが、同じ子犬の中にあります。
真理を求める人の中でも、これとよく似たことが起きます。
本当のことを知りたい。けど同時に、今まで自分だと思ってきたものは守りたい。
真理へ還る過程では、このようなエゴとの駆け引きが起きます。
ただ、エゴを消そうと戦えば、その戦っている者が次の枝を握ります。
子犬の前足を無理に枝から離そうとすれば、逆に、さらに強くしがみつくのと同じです。
「エゴを出し抜く」とは、エゴと戦って勝つことじゃなく、戦わず、抵抗せず、「何を握っているのかを見る」ことです。
だから、動機が完全にきれいになるまで待つ必要はありません。
そして、本当の自分に呼ばれているのかと聞かれれば、もちろんイエスです。
呼ばれているのは、一部の特別な人だけじゃありません。お金や成功、愛情や安全を求める人も、その奥では、失われない満足を探しています。
ただ、その呼び声が「真理を知りたい」という形ではっきり聞こえ始める人もいるんですね。不思議。
本当の自分からの呼び声は、どこか外から「おーい」と聞こえてくるんじゃないんだけど、
心はその呼び声を「真理が欲しい」という欲に翻訳します。
だから、エゴから来たのか、本当の自分から来たのかを、最初からきれいに二つへ分けることはできないんです。
枝を握っているのもジョンだし、地上へ降りたいと鳴いているのもジョンです。
ただ、下から飼い主の手が伸びています。だから、ジョンの欲だけではありませんね。
自分が真理を探し始めたと思っていたけど、あとから振り返ると、飼い主のほうが先にジョンを見つけて、ずっと手を伸ばしていたわけです。


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