前回の記事では、イエスが神殿へ入り、そこで商人や動物、鳩まで外へ出していく場面を見てきました。
マイスター・エックハルトは神殿を人間の魂として見ました。パラトゥリクスではこれまで、世界そのものも意識の中に現れるものとして何度か扱ってきました。
ここでは神殿を心として見ていきます。想念が現れ、外側の世界との関わりによって絶えず動いている場所です。
私たちは普通、心は内側、世界は外側にあるものとして考えていますが、実際には外側の影響によって心が動き、内側で何かが起こればその心の動きが外側の出来事にも連鎖していきます。
そのため、荒野でイエスが何度も神を選んだように、心が何に向くのかという選択が必要な時期はもちろんありますが、個人の内側でどれほど真摯に神だけを想っていても「神を想う」ということ自体が想念として現れているかぎり、
やはり心と世界の領域では「動き」は起こり続けます。
それゆえ、たとえ人生の出来事の中で「神的な奇跡」が起きても、その状態を永久に固定しておくことはできません。
動くものの世界にいる以上、作用があれば、いずれ反作用の風にも触れるということですね。
ユダの裏切りという世界の揺らぎ
イエスの物語にも、大きな揺らぎが起こります。
ユダの裏切りです。1それをきっかけに、イエスは捕らえられます。
イエスとともに歩いてきた弟子の一人が彼を裏切り、その出来事からイエスは十字架へ向かうことになります。
この瞬間だけを切り取れば、普通の感覚で見れば最悪の出来事です。信頼していた者に裏切られ、そこから状況が悪化していくわけですから。
ましてイエスは神を求め、神に従い、権力にも屈せずに人々へ教えを語ってきました。その先に待っていたものが、これです。普通なら「なぜこんな運の悪い悲劇が起きるんだ」と嘆くでしょう。
ここで、仮に霊性探究を「神や真理へ近づくほど必ず人生で起きる出来事がすべて平和になるはず。神を信頼するほどすべての災難から必ず守られるはず。正しく生きれば素晴らしい出来事しか起こらないはず」という信念で霊性の深まりを捉えていたら、ここでかなり絶望し混乱すると思います。
話が違うじゃないか、と。笑
普通の感覚なら神に対しての信頼は即座に崩れ、ダークサイドに堕ちてしまっても不思議じゃありません。
しかしイエスは、その出来事を呪うことも、その流れから逃れることもしませんでした。
ユダを排除して物語を書き換えようともせず、世界の揺らぎそのものを止めようともせず、ゲツセマネでは苦しみながら祈り、最終的にはその流れを受け入れています。
また興味深いのは、イエスがこれから起きることを何も知らず、突然ユダに裏切られたようには描かれていないことです。福音書では、自分が裏切られること、その人物が弟子たちの中にいることまで語っています。
まるで、この先に待つ流れをすでに知りながら、その中へ進んでいくようにも見えます。
ゲツセマネの祈り
物語はいよいよ、十字架へ向かう最後の夜に入ります。
ユダの裏切りによってイエスが捕らえられる、その直前です。
自分がこれから捕らえられ苦しみを受け、死へ向かうことを前にして、イエスは弟子たちとゲツセマネへ行き、深く苦しみ悲しみながら祈ります。
「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし私の望むままではなく、御心のままに」2という祈りを捧げます。
ここは、荒野から続いてきた「神を選ぶ」「神の御心に委ねる」という流れが、極限まで切実なところへ来た場面です。
それまで何度も神を選び続けてきたイエスが、最後には生きることも死ぬことも自分の命そのものをも神の御心へ委ねます。
十字架という形の意味
ここで、十字架そのものの形について注目してみます。
十字架には縦の軸と、横の軸がありますね。
この二つの軸は、霊性の話をするときにとても大切だと思っています。
縦の軸は下から上へ向かいます。これは神を求め、神へ近づき、神との合一へ向かっていく霊性や真理への道です。
横の軸は左から右へ向かいます。こちらは時間と空間の中を一人の人間として生きていく道です。
人は経験し、人と関わり失敗し、学びながら知性や能力人格などを育てていきます。
図にすると、こんな感じです。

縦にも横にも、やはりそれぞれ深まりがあります。
同じように神や悟りについて語っていても、どこまで個人の私との同一化を剥がすか、溶かすか、手放せるかによって、やはりレベルや段階や深度があります。
たとえばイエスのように、自分自身の命そのものまで神の御心へ明け渡していく段階と、真理探究を始めたばかりの人が「明日のランチはどちらにするべきか」という自分の意志を神へ明け渡していく段階とでは、やはり大きな違いがありますよね。笑
横についても同じです。
極端な例を出せば、ヒトラーとガンジーを「どちらも同じ神から現れたのだから、人間としても同じ価値です」と言うわけにはいきませんね。
何を考え、何を選び、何を行い、他者へ何をもたらしたのか。時間と空間の中を生きる人間として、そこには愛か、恐れかなどの明確な違いがあります。
ただ、この二本の軸には重なる領域があります。
心や自分自身を理解することは、人間としての成熟にも霊性にも向かいます。心理や自己啓発、願望実現、潜在意識、引き寄せなどに、スピリチュアルや霊性と「共通するもの」が出てくるのもこのあたりです。
そして、そこから先が面白いところです。
横の軸では、個として経験を重ね、能力を育て、人と関わり、自分にしかできないことを形にしていく方向があります。何を思い、何を好み何を嫌うかなども含めて、たった一つの個性なわけです。
縦の軸では、その中心部を超えてさらに上へ進むと、あるところから私という個との同一化を手放していく方向が強くなります。前回の記事で神殿から商人も動物も鳩も退いていった話も、まさにこの領域になります。
ここで手放されるのは、善さや知識そのものではなく、それを「私そのもの」としている同一化です。善い人間になることも、人格を磨くことも、知識を深めることも、横の軸ではそのまま意味があります。
横では個が形成され、展開していく。縦では、その個を「私そのもの」としていた同一化がほどけていく。
人によって縦をひたすら深めていくこともあれば、横を中心に個と世界を生きることもあります。両方を生きたり、途中で横から縦へ、縦から横へ向かうこともあるでしょう。
霊性の深まりも、人間としての成熟も十人十色です。
ただ、それらの違いよりさらに根まで遡れば、聖人も大悪党も、賢者も愚者も同じ神から現れ、同じ全体意識もしくは宇宙意識、この記事でいう神の中に存在しています。そこに上下も違いも、正しいや間違いも、多い少ないもありません。
ここまで見たうえで、もう一度十字架へ向かうイエスの話に戻ります。
横には、時間と空間の中を生き、歩き、語り、さまざまな人々を救い奇跡を起こした一人の身体と精神としてのイエスがいます。縦には、父なる神を求め、あらゆる試練の中でも神を選び続け、最後には自分自身まで神へ明け渡していくイエスがいます。
その二つが交わる場所に、「この人間である私」「心と肉体をまとった私」という主人公イエス。
ここから、その「私」の終わりが始まります。
「私はこの肉体と心である」の終焉
霊性の世界では「あなたは肉体でも、心でもない」という言葉があります。
聞いたことありませんか?
言葉として頭で理解することは、それほど難しくないかもしれません。しかし身体が傷つき、衰え、死へ向かうときにも、その理解が同じ強さで残っているかとなれば話は変わります。
考え方や性格、名前や肩書きが変わっても、自分はまだ自分だと思える。しかし身体そのものが失われるとなると、「私そのものが終わる」という強い恐怖が立ち上がります。
ここで、十字架にかけられたものは何か?を見てみます。
そこにかけられているのは「イエスという一人の個」です。
そこには考え、記憶し、感じる心があり、生まれ、成長し、傷つき、やがて死ぬ身体があります。
真理探究の地図として読むなら、イエスの物語はこの瞬間にすべてが集中しています。
十字架での死は、「私はこの心と身体である」という同一化の終焉として見えてきます。
イエスの受難に描かれる凄まじい痛みも、肉体的な苦痛であると同時に、「これが私だ」と握っていたものが徹底的に剥がれていく象徴として読むことができます。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
そのとき十字架上でイエスは、
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」3と叫びます。
この言葉は、イエスの生涯の中でも特に重要だと思っています。
まずここには、あのイエスでさえ最後の最後まで「なぜ」という問いが生まれる余地があった、ということが現れています。
真理探究の地図として読むなら、実現の直前まで心は心として動く。探究が終わる、その最後の瞬間にさえ「なぜ?」という問いが起こり得る。
そしてこの言葉には、もう一つのことも現れています。
「私」と「神」です。
神を愛し、神を求めているかぎり、そこにはまだ神を求めている「私」と、求められている「神」がいます。
前回の記事で扱った神殿の話が、ここでまた出てきます。神殿から動物も商人も鳩も退いた。残ったのは空であり、神だった。ところが、その神殿が空だと知っている者がいるわけです。空を認識している「私」です。
どれほど真実に近い知識であっても、それを知っている「私」が微細にでさえ残れば、そこにはまだわずかな距離があります。
十字架上のこの叫びを、その最後の距離にまで届いた場面として読んでいます。
神を愛し、神とひとつになるということは、最後にはその神を愛していた者さえ終わるということです。
「私は神を愛している」というところでは、まだ「神を愛する者」と「愛される神」がいる。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」
これを、イエスが最後に神を疑った瞬間だとは見ていません。むしろ、一度も神を愛することをやめなかったイエスの中に最後まで残っていた、「神を愛してやまない私」が溶解していく言葉として読んでいます。
その距離まで消えたとき、「愛すること」から「愛そのもの」になる。そこにはもう愛しかなく、それを確認する者は誰もいません。
「成し遂げられた」
そして『ヨハネによる福音書』では、十字架上のイエスが最後に、
「成し遂げられた」4という言葉を残します。
私はこれを、実現であり探究の終わりとして読んでいます。
探究の終わりとは、宇宙について何でも理解できるようになることでも、あらゆる疑問への答えを集め終えることでもありません。問い続けていた者、その主体が「神そのもの」の中で消滅する。
そして主体が終われば、その主体が認識していた世界も、それまでの意味では成立しなくなります。
「私」がいて、その私が世界を見て、宇宙を認識し、神を求めている。その構図そのものが終わる。だから探究が終わります。
神を愛していた者が終われば、その者の向こう側にいた「愛される神」もまた、同じ場所には残りません。
愛する者と愛される神。
その最後の二つまで消えたところで、「成し遂げられた」。
墓が空だったということ
そして、十字架で死んだイエスの身体は墓へ納められます。
その後、墓を訪れると、そこにイエスの身体はありません。
墓は空でした。5
墓とは、死の象徴です。その墓が、空だった。空っぽだったわけです。
私たちが死を恐れるのは、生まれてから今日まで続いてきたこの身体を「私」としているからです。
その一つの物語を「私の人生」と呼んでいます。誕生が私の始まりであり、死が私の終わりです。
だから墓は恐ろしい。しかし十字架で「私はこの肉体である」という主人公が終わったあと、墓を開けてみると、
・・空だった。
これは「死を乗り越えて永遠に生きる個人が現れた」というより、そもそも生まれて死ぬと思っていた「私」の方が、本当の主ではなかったことが明らかになることです。
ここで①の記事で扱ったイエスの言葉が、もう一度つながってきます。
「アブラハムが生まれる前から、私はある」
①では、この言葉を「私は在る」という神性の開示として見ました。
③まで来ると、その意味がもう一段深く見えてきます。
ここで指されている「私」は、イエスという身体が生まれる前という時間的な比較そのものを越えています。
主が時間の中に生まれて、時間の中を進み、やがて死んでいくのではなく、その誕生と死を含んだ時間そのものが、主の中に現れている。空間についても同じです。「私はここにいて、神はどこか向こうにいる」という距離が成立する以前から、すでに在る。
ならば、主には誕生も死もない。
「それ」は一度も生まれたこともない、だから死ぬこともできない。
墓が空だったという出来事を、私は誕生と死が現実ではなく幻想であり、その正体は空だったという象徴として見ています。
そして復活する
聖書ではその後、復活したイエスが弟子たちの前へ現れます。
真理探究の地図として読むなら、復活とは、死んだ個人が以前と同じ主人公として戻ってくるってことじゃなく、個人の物語が終わったあと、それでも失われなかったものが明らかになることとして見えてきます。
十字架で心と身体としての「私」が終わり、墓には死さえ残っていなかった。そして現れるのは、最初から一度も生まれず、一度も死んでいなかった主です。
「私は神になった」と言う個人が残るわけではありません。その「私」まで終わったあとに、神だけが残る。
「神だけが残る」それを知り得る者も確認する者も空のままに。
「イエスの復活」を私はそんなふうに読んでいます。
ほかにも聖書やイエスにまつわる話には重要なポインターや象徴はありますが、
今回はその中から①〜③で取り上げた部分に焦点を絞り、パラトゥリクスなりの視点で扱ってみました。長くなってしまいましたが参考になれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
- ユダによるイエスの裏切りと、その後イエスが捕らえられる流れは四つの福音書に描かれています。福音書によってユダの動機や描写には違いがあります。 ↩︎
- ゲツセマネでの祈りは『マタイによる福音書』26章36〜46節、『マルコによる福音書』14章32〜42節、『ルカによる福音書』22章39〜46節などに記されています。これも福音書ごとに表現には違いがありますが、自分の願いより父の御心が行われることを願う祈りが描かれています。 ↩︎
- 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉は、『マタイによる福音書』27章46節、『マルコによる福音書』15章34節に記され、旧約聖書の詩編22編1節の言葉と重なります。 ↩︎
- 「成し遂げられた」は『ヨハネによる福音書』19章30節に記された、十字架上のイエスの最後の言葉です。ギリシア語では「テテレスタイ」と記され、「成し遂げられた」「完了した」といった意味を持ちます。なお、本記事でその前に扱った「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」は『マタイによる福音書』『マルコによる福音書』に記された言葉です。 ↩︎
- イエスの墓が空であったこと、そして復活を伝える物語は四つの福音書すべてに記されています。登場人物や出来事の順序、復活したイエスの現れ方などには福音書ごとの違いがあります。 ↩︎


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