幻想に入った道を、逆向きにほどく
ようこそ、パラトゥリクスへ。
前回の『「あなたはすでにそれだ」は、エゴにとって勘違いしやすい言葉』という記事では、あなたはすでに真我で、「それ」なのに、どうしてわざわざ探究しなければならないのか?という矛盾について書きました。

結論、それは「言葉が向いている先が違う」とお伝えしました。
ある言葉は真我そのものであるあなたに対して語っており、ある言葉は個人のあなたに向けられているということです。
さらに付け加えるなら、言葉は、受け取る側の状況によって、現れ方そのものが変わります。
同じ真理を指していても、探究者の熱意や成熟度によって、語られるメッセージの深さも、方向性も変わってきます。深く受け取れる者には、深く切り込む言葉が現れ、まだそこに接触する準備がない者には、その人が受け取れる範囲の言葉として現れる。
だから、同じ言葉でも、解放の指差しになることもあれば、エゴにとって都合のいい解釈に堕落してしまうことも往々にしてある。(特に、師と弟子のあいだで交わされた言葉を、第三者が自分の都合の良いように受け取る場合注意が必要です)
その言葉が、誰に、どの段階で、どんな前後の文脈の中で、語られたものなのか。細かいですが、ここが大事です。
それで、今回は、そんな話の続き。
この私たちが幻想世界に入り込んでいった流れと、
悟りの道で解体されていく流れは、
ちょうど逆向きである、という話です。
言い換えるなら、私たちがこの幻想の世界へ深く巻き込まれていった道を、今度は智慧と明け渡しによって、一つひとつ鎖をほどいていく、もとの来た道を、引き返してほんとうの故郷に帰還するような流れが、真理探究のプロセスです。
頓悟と漸悟とは何か
仏教などでは、段階的に理解が深まっていく道と、直接的に「それ」に触れ、一気に見抜かれる道を、
- 頓悟(とんご)
- 漸悟(ぜんご)
という言葉で表すことがあります。
頓悟(とんご)とは、一気に飛躍する理解。「なぜか突然わかる」という強烈なひらめきのような直接理解のことです。
漸悟(ぜんご)とは、段階的に深まっていくこと。純粋意識の瞑想に取り組んだり、明け渡しを浸透させていった結果、以前よりも境地が深まっていく。こういう筋トレのような、漸進的な成長プロセスが「漸悟」です。
探していたものは、なぜ見つからないのか
ここで例え話。
あなたは大事なメガネを無くしてしまいました。
そのせいで視界がぼんやりして、とても見えにくいです。
あなたは心当たりのある場所を探していきます。ここにもない。あそこにもない。
でも少しずつ「これではない、あれでもない」ということがわかっていきます。
まるでエジソンが電球のフィラメントを探した時に、何度も「これは違う」と確かめながら、目的の条件に当てはまる素材を探していったように。
このような懸命な調査の結果。まるで本物のように説得力を持っていた幻想が、
「あれ、これはホンモノではない」「違った」「これでもない、あれでもない」という理解の数や気づきの深まり、明晰さの進行が、ちょうど漸悟のプロセスに当たります。
そして、よくある話なのですが、実はといえば、その探しているメガネはあなたの頭にかかっています。
実はそのことを忘れてしまっているだけで、あなたとメガネは、離れていませんでした。
でも、まさかすでに頭にかかっていて、本当はそのことに気づくだけで良いということがわかりません。
長いことずっとメガネを探し続けてきたからです。
たくさん何度も見つかった時に歓喜する自分のイメージをあなたは膨らませてきました。
今では慣性の法則のように、意識は、起きている間は、常にメガネを探し求め続けていて、そうじゃない時間は睡眠中ぐらいのものです。
それなのに、ある時、不思議な現象が起こる。
それは「あれ、私とは『探し求める者』ではなく、『ゴール』じゃないか」と、ふと違和感のようなものが薄ら湧き起こる。
つまり、メガネを頭にかけた記憶、そして実は頭にあるのではないかという謎の、どこか不思議なところからの、呼びかけ、違和感、なにか直感めいた感覚。これが頓悟の小さな種です。
忘れていた人の名前が思い出されたり、失われていた記憶が蘇るのと同様、この種の「思い出し」にもいきなりドカンと全体像を100パーセント回復ではなく、パズルのピースのように、徐々に、まだら状に、記憶回復していく動きがあります。
こういったような記憶回復のプロセスが、頓悟です。
なので、この二つは、表面的には矛盾しているように見えるかもしれませんが、霊性の道において、別々に切り離されたものではありません。
漸悟の中に、頓悟の一撃があり、頓悟の中に、これまでの漸悟の成熟がある。
そして、悟りの安定、真我実現とは、「探していたものは、すでに自己そのものだった。そのことをずっと忘れないで、それとしていつまでも在り続ける」ということ。
箇所ごとに、部分部分で入れ替わりながら螺旋を描いて上へ進んでいく。そして最終的には、頓悟は漸悟になり、漸悟は頓悟になっていく。
智慧の道。明け渡し。ジニャーナヨガとバクティヨガのように!
幻想は、最初から罠の顔をしていない
私たちは、いきなり巨大で大掛かりな幻想に捕獲されたわけではありません。
何事もはじめは、小さな小さな、ショートステップなのはここでも同じ。
一般的に見ても、人が、大きな執着の渦に巻き込まれたり、止めどない中毒にかかってしまう場合、
何事も最初は、ほんの小さな弾み、興味、偶発的な何気ない接触から始まります。
お、少し気になるから、ちょっと手にとってやってみよう。味わってみよう。行ってみよう。体験してみよう。
まるで魚釣りの針に、魚が何気なくほんの少し口をつけるように、です。
聖典でよく「無知」という言葉が出てきます。
真理探究や霊性探究においての「無知」とは、知識が「ない」というよりも、ある意味、逆なのかもしれません。
私たちが無知なのは、純粋、純朴すぎたせいで、危険を想定できない、危機感の欠如なのかもしれない。
最初は、ただの好奇心だったところに、大きな刺激と振動が起きる。それが、電流のように快楽となる。
私たちは、心臓の高らかな鼓動に、とても強い脳内物質を増幅させる。
もっと欲しくなる。もっと見たくなる。もっと味わいたくなる。もっと知りたくなる。
そして気づけば、捕まっている。
最初は軽く触れただけだったものが、いつのまにか執着になり、執着が習慣になり、習慣が中毒になる。
あらゆる中毒の最たるもの、それがこの想念の森という名の幻想世界(マーヤ・ワールド)です。
やめたいのに、やめられない。抜けたいのに、また戻る。分かっているのに、また掴む。
個を主と思い、身体を私だと思い、思考を私だと思い、感情を私だと思い、記憶を私だと思い、過去の物語を私だと思い、未来への不安を私だと思い、世界を現実そのものだと思い込む。
だからこそ先ほど言ったように、悟りの道とは、この流れを逆向きにほどいていくことでもあります。
来た道を引き返すのです!
我々はそのために、まず一番重要なことは、情熱です。モチベーションを高めることです。
モチベ。意欲。正当な情熱を持って、「苦から抜けたい!」「永遠の安心を知りたい!」「至福に触れたい」と願うことが何よりも大切です。
真理の探究者が実現するために何が必要か?
頭の良さ?心の綺麗さ?生まれた場所?才能?善行の数?徳を積むこと?
私ははっきり言います。強い情熱です!
「真理とは何かを知りたい」「この人生とは何なのか。私は何なのか。この世界とは何なのかの正体を知りたい」と、魂の奥で爆発するような正当な想いです!
そういう想いが、内なる蒼い火を起こし、幻想の森を燃やし尽くすのです!
そこから探究が始まる。
だから、本来探究とは人から言われてやることじゃないんです。
内なる自己愛が爆発して求めるんです。
もう嘘や欺瞞や偽りが耐えられない!と。
あなたよ、自己を愛してください。
我々は純粋ゆえ、すぐに忘れてしまう
なので、我々は何度も何度も、泳ぐ魚のもとに釣り針が垂らされるように、ふと、何気なく、反射的に針を咥えてしまっているんです。
毎回、まな板の上で「しまった、こんなことになるとは、今度は絶対気をつけよう」と、目に涙を浮かべて、歯を強くこすりながら決意するのです。
しかし、そのことを思い出すのは、再びまな板の上に乗せられた時です。
我々は純粋ゆえ、すぐに忘れてしまう。我々の本性が純粋ゆえ・・。
人は、愚かだから幻想に捕まるのではないのです。
純粋だったから、世界という針を疑えなかったのです。
ここに、言いようのない深い悲しみがあります。
そして、ここに、深い救いもあります。
なぜか?
世界は、夢は、幻想は、永遠に動き続けます。これに終わりはありません。
なぜ終わりはないのか。それが実存なら、どこかで止まります。
ボールが転がったらどこかで止まります。停止して不動なもの。それが実存です。
しかし、永遠に動くことを可能にし、ループを可能にできるものがあります。
それはすでに止まったボールについて想う心です。それは永遠に止まりません。なぜか?
そんな無茶苦茶でデタラメなシステムが成立する理由は、それが、非存在だからです。
始まっていないものは、終わることもできない
存在していないものだからこそ、永遠に追わせることができる。
本当にあるものなら、いつか触れられる。いつか静まる。いつか終わる。
でも、非存在は終わらない。
なぜなら、最初から掴めないからです。追っても追っても、そこには何もない。
なのに、何かがあるように見える。その幻影の中で、我々は何度も走り、何度も掴み、何度も転び、何度も涙を流す。
そしてまた、まな板の上で思い出す。ああ、また食いついてしまった、と。
この痛みを、本当に見た時、探究は趣味ではなくなります。
スピリチュアルは趣味や娯楽や健康法、美容法、ダイエット、交流会ではなく、本来、真剣なワークであり、幻想に向かいたいエゴと、真我に向かいたい自己愛との、戦いなんです。
霊的な戦い、聖戦なんです。
だからあなたは、真剣に学び、考え、自己を問い、祈り、瞑想をし、明け渡すのです。
身体ではない。思考ではない。感情ではない。記憶ではない。自己像ではない。この世界に現れているものだけが、すべてではない。
そうやって、少しずつ幻想がほどけていく。
私たちは永遠の幻想から抜け出すために、恩寵の光が、必ずあなたを絶え間なく照らしている。
永遠の幻想は終わらない。私たちはずっと過去に苦しみ続けた。
でも、それだけが、すべてじゃない。
恩寵が、幻想の森に火を放つ
幻想へ向かっていた興味が、あるとき真理への渇望に変わる。
外へ外へ向かっていた力が、内へ内へと反転する。
我々は本来、何度も何度も繰り返され、永遠に針に食いつく習慣が魂レベルまで染み渡っています。
無知がデフォルトなんです。
それなのに、ある時、ふと違和感が起こる。
「あれ?なんだこの違和感」「何かおかしくね」「なんだなんだ」
いつもならそのまま世界に流されていたはずなのに、なぜか止まる。
いつもならまた針に食いついていたはずなのに、なぜか針が見える。
いつもなら快楽へ、物語へ、不安へ、怒りへ、未来へ、過去へと走っていたはずなのに、なぜか、その動きそのものが見える。
これは、個人の手柄ではありません。
だって、我々は、何度も針に食いついてきました。
そして、何度もまな板の上で思い出してきました。
「今度こそ」と誓いながら、また忘れてきました。
でも、そのたびにすべてが終わったわけではありません。
ある時、その痛みの奥に、別の火が灯ります。
もう幻想には戻れない。嘘では満たされない。本当のものしか欲しくない。
その火が、真理探究です。
そして、その火をこちらに向けてくれるもの。
偽りからの脱却、解放を促してくれる存在、エネルギー、方向性、運動、展開、声。
それが恩寵です。それが神です。姿形があってもなくてもそんなものは構いません。
肝心なことはそれは真我とエゴの橋渡しをしている存在だということです。
そして、その恩寵なしでは決して我々はループから脱出しようとする気さえ起こらないということです。
これが恩寵の不可思議な御心です。
次回は、恩寵について書いていきます。
あなたの内なる探究に、至福と恩寵が降り注ぎますように。

