「ねえねえ、ママ。どうして月が二つあるの?おかしいよ」
夜空には本当に月が、二つあった。ひとつは遠く、ひとつは近い。
だがよく見ると、片方の月だけがほんの少し遅れて動いているようにも見えた。
「あのね、あれはまったくおかしくないの」
母親は空を見たまま言った。
「月と月が、仲良くおしゃべりしてるのよ」
「へぇー。どんな話してるの?」
「どちらが先にあったのか、って」
「どっちが先なの?」
母親は答えなかった。
かわりに、二つの月のあいだにある暗い場所を指さした。
そこには何もなかった。星もなく、光もない。
ただ、月と月のあいだだけがぽっかりと空いていた。
「何もないよ」
「そうね」
「何もないなら、どうしてそこを指したの?」
母親は笑った。
「よく見てごらん」
二つになる前
その夜あなたは死後の世界にいた。あるいは生前の世界にいた。
どちらでもよかった。
まだ時間が始まっていない場所では、生まれる前も死んだあとも、それほど違わない。
名前も身体もない。昨日もなければ明日もない。
「ある」と言う者もいない。
「ない」と言う者もいない。
だから、それを無と呼ぶこともできなかった。空と呼ぶことさえできなかった。
ただ、あるとないが分かれるより前の名づけられない何かだった。
あるとき、そこに小さな揺らぎが起きた。なぜ起きたのかは誰にも分からない。
一つの月が「私」と名乗った。
その瞬間、もう一つの月は「私ではないもの」になった。
私と世界、見るものと、見られるもの。こちらとあちら。
二つの月のあいだに距離が生まれ時間が流れ始めた。
それが、夢の始まりだった。
期間限定の夢
あなたには名前が与えられた。
肉体が贈呈された。
目を開けば世界があった。
人の顔、道路、駅の階段。
食べ物の匂い、誰かの手のひら。
痛み、幸福。早朝の光に白くなるカーテン。
誰かを愛し誰かを嫌った。失いたくないものが増えた。
やがて、どの月が自分だったのかも忘れた。
世界はあまりにもよくできていた。
心が動けば景色も動く。
怒っているときには世界全体が敵のように見える。
愛されているときにはこの夢が永遠に続けばいいと思う。
天国も地獄も、遠くにはなかった。
どちらも同じ月明かりの中に現れた。
意識のサブスクは自動更新だった。
解約方法はどこにも書かれていない。
毎朝、目を覚ますたびに、メモリー・リセット・リスタート。
昨日までの物語を背負いながら、初めての今日が始まる。
そうして、物語は姿を変えながら何度も繰り返された。
月が消える
長い時間が過ぎた。
創造され、しばらく維持され、やがて破壊された。
人が生まれ人が死んだ。国ができ国が消えた。愛が始まり愛が終わった。
ある夜、二つあった月の片方がゆっくりと薄くなり始めた。
「ママ、月が消えちゃう」
子どもは不安になった。白かった月は少しずつ夜の色へ溶けていく。
母親は空を見ていた。月はもうほとんど見えなかった。
やがて、最後の光が消えた。
月があった場所には、夜空だけが残っていた。
空が欠けたわけでも狭くなったわけでもなかった。ただ、もう一つの月が浮かんでいた。
「どこへ行ったの?」
「空に戻ったかもしれないね」
「でも、なくなったよ」
子どもは、月があった場所と残された月を交互に見た。
「なくなったのは月なのかな」
「じゃあ、何がなくなったの?」
母親はしばらく考えてから、言った。
「二つという数かもしれないね」
二つという数が消えたあと
一つ目の月が私で、二つ目の月が世界だった。
その二つが現れることで、夢が始まった。
では、片方の月が消えたとき、夢は終わったのだろうか。
それを見届けていた空まで、同時に消えただろうか。
身体が消え、記憶が消え、名前が消える。
意識と呼んでいた光さえ、いつか静かになる。
しかし、それらが現れる以前にまで「消えた」という言葉は届くのだろうか。
始まったものなら、終わることができる。生じたものなら、消えることができる。
だが、始まったことのないものはどのように終わればいいのだろう。
古い言葉は、それを真我、空、絶対などと呼ぼうとした。
けど、名前を与えた瞬間それはもう「こちらから見られる何か」になる。
言葉はすべて、二つに分かれたあとの世界にある。
有でも無でもない。一つでも二つでもない。
二元とも、非二元とも呼ばれるより前。
沈黙と呼ばれるよりも前。
そこには、沈黙を認識している者さえいない。
月と月の談
「ねえ、ママ」
「なあに?」
「月と月は、まだおしゃべりしてる?」
空を見ると、いつの間にか月は再び二つになっていた。
「してるわよ」
「今度は、何を話してるの?」
「どちらが本物なのか、って」
「どっちが本物なの?」
母親はまた、二つの月のあいだを指さした。
子どもは、じっとそこを見た。
何もない。やはり、何もない。
けど今度は、先ほどとは少し違って見えた。
二つの月は、夜空の中に浮かんでいた。
けれど夜空は、自分を一つとも、二つとも呼んでいなかった。
「聞こえないよ」
「そうね」
月と月は、ずっと話している。しかし空は一度も声を出したことがない。
月ではじまり、月にて終わる。創造され、維持され、破壊を繰り返す。
それでも何ひとつ変わっていない。
ずっとずっと、沈黙以前。


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