問い
恩寵という言葉をよく聞きます。
でも、本当に誰にでも恩寵は働いているのでしょうか。
長年苦しみ続ける人や、途中で探求をやめてしまう人もいます。
それでも恩寵は働いていると言えるのでしょうか。
応答
恩寵という言葉を聞くと、多くの人は特別な出来事を思い浮かべます。
一瞥。特殊な出来事。素晴らしい師と出会えた。奇跡的な体験。それから、長年の苦しみが癒えたり消えたり。
そういう出来事だけを恩寵だと思いやすいものです。
しかし、それだけが恩寵なら恩寵は非常に気まぐれなもので、ある人には与えられ、ある人には与えられない話になってしまいます。
私が言う恩寵は、もっと根本的なもの。
まず考えてみてください。そもそも、なぜあなたは真理に興味を持ったのでしょうか?
世界中のほとんどの人は、真理探求をしませんよね。
人生を生き、仕事をし、恋愛をし、家庭を持ち、素晴らしい思い出、同時に悲しい想い出つくり、寿命が来てそのまま一生を終えます。
それが悪いという意味じゃなくて、真理への探究欲が出ないのが一般的な人生です。
その中で、「自分とは何か」「真理とは何か」という形而上学的な問いが、なぜか強く心から離れない人がいます。
目に見えないものを探究するなんて、やめようと思ってもなかなか手放せなかったり、
忘れようとして他のものに没入しようとしてもあるときふと思い出す。別のことを求めていたはずなのに、なぜかまた同じ問いへ戻る。
この時点で、すでに何かが動いています。
本人は「自分の意志で探求を始めたんだ」と思っています。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
探求したいという衝動は、自分で作れるものなのでしょうか。
興味を持とうと決めて、持ったのでしょうか。
多くの場合、違います。
気づけば始まっていた。
私は、ここに恩寵の呼びかけを見るのです。
恩寵イコール安楽で、至福の広がりだけじゃありません。
むしろ、悲しみ、苦しみ、辛い出来事や経験から深い探究が始まることがあります。
そういう不思議な、反転の流れをここで恩寵と呼んでいるだけです。
探究は、理解したと思えば分からなったり、平安に至ったと思った直後に、苦しくなったりします。
だから途中では、「自分は恩寵や運命に見捨てられた」とか、「恩寵なんてない、自分は苦しいし、何も進んでいないから」とか、そう感じることもあります。
しかし、その停滞さえ、本当に停滞なのでしょうか。完全な悪なのでしょうか。
一年前の自分と、今の自分を比べれば、見ている景色は少しずつ変わっています。
握っていたものが崩れ、正しいと思っていた理解が崩れ、最後には、自分が進歩しているという誇りの感覚まで崩れていく。
恩寵は、成功体験だけを運びません。時には、支えを壊し、頑固に信じていた価値観を奪うことさえあります。
なぜなら、本当に終わるべきものは、苦しみだけではないからです。
「私は進んでいる」「私は真理へ近づいている」
その「探す主人公」と「終わらない旅」もまた、最後には手放されるからです。
苦しみも、停滞も、迷いも、絶望も、場合によっては恩寵の働きと言えてしまいます。
こう聞くと、苦しみ=恩寵と、恐ろしく感じてしまうかもしれません。
最も大切なのはここです。
苦しみや悲しみには条件や理由があります。
しかし、喜び、なぜかわからないけど生まれる安楽、平和、感謝、慈しみ、赦し、愛のような広がり。
こういったものに理由なく触れることがあります。
説明がつかないけど確かで、直接的に感じられるもの。
内側からなんの前触れもなく訪れるもの。
これもまた恩寵です。
あなたは例えば、ライブ中、スポーツの応援中、芸術に触れたとき、セックス、恋愛、動物、家族愛、友情、チームプレイ、他にも無数にあるでしょうが、このような時に生まれる喜びや感動や安心が、
なぜか条件も、因果もなく、突然生まれる時があるでしょう。
考えてもみてください。
辛い、苦しいだけの時間なら、真理探究なんて誰も出来ない。
何かが、知っているんです。深いところで。だから求めるんです。
良いから。一致するから。自然だから、素晴らしいから。条件付きのものよりも、常にあり、無条件で、直接的なシンプルな在り方を。
ここだけの話、大胆にいってしまえば、深いところでは誰もがみな真理探究者です。
誰もが深い自己愛を求めています。人間だけじゃなく、全存在が。それもまた恩寵で、漏れがないんです。


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