子どもの頃、私は親戚のおじさんにこんな話をしたことがあるらしい。
「人がなぜ鏡を作ったか教えてあげるよ」
大人になってから聞くと、当時の私はこんなことを言っていた。
「自分の後頭部だったり背中側の景色って、自分の目で見ることはできないよね。
なのにみんな、頭の後ろにも世界があたりまえに続いていると思ってる。
過去に見たものの記憶や、ほかの人の身体を見た経験から、見えていない場所にも世界が続いていると当然のように思ってる。これって不思議だよね。
もしかするとさ、だから人は鏡を作ったのかもしれない。見えていない場所まで見える世界の中へ連れてくるためにさ」
子ども特有の突拍子もない理屈だと言えばそれまでだと思う。
とはいえ私の発言はおじさんに、異邦人でも見るような目でこっちを見つめさせるくらいの絶大な効果があった。
私だって親戚との関係をこじらせたいわけじゃないけど、その頃から私には世界が最初から独立して完成された状態で自分の外側に置かれているとは思えなかったのだ。
後ろの景色が存在しないと、確信的にそう言いたかったのかというと少し違う。
ただ見えていない場所まで、みんな当然のように「ある」と思っている。
その当然さが、私にとっては不思議だった。
世界は、外側に置かれたものではなく、見たものや聞こえたもの触れたもの覚えているものによって少しずつ「私の世界」になっていく。
そんな感覚があった。
名前を持つ前
鏡に顔が映る。
合わせ鏡を使えば後頭部も映るけど、それを見ているものは鏡の中に現れない。
あなたには、今、名前がある。
過去、身体、自分についての説明がある。
だけど、そのすべては認識されているものだ。
あなたは名前や身体の感覚に気づいている。
では、それらを知っているものは何だろう。
名前を持つ前のあなたは、今も、名前を持つあなたに気づいている。
ただ、そのものには名前がない。
右も左もない。
ここも、あそこもない。
あなたはそれを探しながら、それから一度も離れたことがない。
ところで、本当の自分ってなんだろう。


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