前回のまとめ
ようこそ、パラトゥリクスへ。
前回は、名前という契約と、「私」の誕生について書きました。
起こっていないはずの分離は、物語の側から見るなら、身体に結びつき、名前に結びつき、記憶に結びついていく。
名前が呼ばれ、身体が振り向き、その身体に、視線が集る。
その現象が何度も何度も繰り返されることで、やがて名前と身体は結びつきます。
「呼ばれているのは、この身体だ」「この身体が、私なのだ」
そのようにして、呼ばれる前にはなかったはずの「私」が、身体の内側に少しずつ定着していく。
こうして、「個、身体、マインド」を中心にした偽の「私」が、疑いの余地もないほど確実に設定されました。
そしてエゴとしての心は、その設定を維持するために、世界を解釈し続けるようになっていきます。
この物語は、熟睡時を除いて、今もなお休むことなく続いていくとも書きました。しかし、どれほど深く「私」という物語が続いていたとしても、分離以前のそれが完全に消えたわけではありません。
今回は、その物語に入る「ひび」について書いていきます。
それでもひびが入る
こうして個人の物語が始まりました。名を呼ばれ、身体を動かし、記憶の中で、感情と思考がまとわりつき、気づいたときには、もう「私」と「物語」が色濃くありました。
世界は、いつの間にか「私ではないもの」として外側に広がっていきました。自分。他人。身体。心。過去。未来。欲望。恐れ。成功。失敗。生。死。
そうしたものが、まるで最初からそこにあったかのように配置されていきます。そして私たちは、その配置図の中で、泣いたり、笑ったり、傷ついたり、求めたり、失ったりしながら生きていきます。
しかし、分離以前の「それ」が消えたわけでは決してありません。
曇ったガラスのように、見えなくなっただけです。その静けさも、その感触も、深いところではずっと残り、あなたに呼びかけています。
だからこそ、ある時ふと、個人の物語にひびが入るのです。
説明できない違和感
それは、ノスタルジックで、説明の難しい、理由のない虚しさかもしれません。
違和感や疑問かもしれません。どこにも帰れないような感覚として溢れるものかもしれません。あるいは、普通に暮らしているはずなのに、ふとした瞬間に、すべてが遠く感じられることかもしれません。
街の音。人の声。自分の名前。鏡に映る顔。いつも通りの部屋。昨日まで当たり前だった世界。
それらが、なぜか少しだけ不思議に感じる。まるで、自分が自分の人生の中にいるのに、どこか別の場所からそれを眺めているような感覚。
そのような違和感は、最初は言葉にならないかもしれません。
ただ、何かがおかしい。何かが、ずれている。この世界は、本当に見えている通りのものなのか。私は、本当にこの身体で、この名前で、この記憶だけの存在なのか。
そうした問いが、まだ問いの形になる前から、内側のどこかで脈打ちはじめる。
そしてある時、私とは何者なのか。本当の自分とは何か。
という問いとして、突然、自己回帰、真理探究の衝動が起こるかもしれません。
このような衝動や問いが生まれたとき、物語は少しずつ反転し始めます。
物語の反転
物語とは、創造、維持、破壊という構成になります。
生まれ、続き、崩れていく。現れ、保たれ、消えていく。その輪は永遠に回る。
だけど、目覚めの誘いも常にある。
自由意志なき輪の中に、ただひとつにして最高の自由意志に見える決定が現れる。
それが──
これまで通りの世界に戻るのか。
それとも、見えている世界に入った小さなひびを、見なかったことにせず、その奥へ進んでいくのか。
真理探究とは、ある意味で、この選択の決行です。
もちろん、実際に誰かが目の前に現れて、二つの道を差し出すわけではありません。けど、人生のある地点で、内側に問いが生まれることがあります。
このように、目覚めに向かう者には、いつの時代も似たような兆しが現れる。
誰もが、はじめの頃は愛と光と永遠をこの地に求めます。
けれど、空虚感。虚無感。閉塞感。異物感。疑問。既視感。問い。違和感。
そういったものによって、物語は少しずつ綻び始める。それでも、月の光のように、真我は常にあなたに故郷への帰還の招待状を贈り続けています。
それが、内側の深いところからの違和感です。
もう元の眠りへ完全には戻れない
そのような問いや違和感が生まれた時点で、それがどれほど微細でも、すでに目覚めの物語は始まっています。
あなたはまだ、それらの感覚的想念を言語化できないかもしれません。
それはまだ弱く、揺れやすいもので、日常の忙しさに紛れて、すぐに見失ってしまうかもしれません。
しかし、一度でもその問いが生じたなら、あなたはあなた自身の深い領域で、何かはもう知ってしまっている。
見えている世界が、ただ見えている通りのものではないかもしれないことを。
「私」と呼んでいる変化し続けるものが、ほんとうの私ではないかもしれないことを。
幸福を求め、不幸を避けるだけの運動では、決して埋まらない何かがあることを。
その違和感は、最初は小さな点のようなものかもしれませんが、その点は、やがて世界全体にひびを入れていく。
一度でもそういった疑問が生じたなら、遅かれ早かれ、
あなたは見て見ぬ振りはできなくなるからです。
しかし、個人は本当には選んでいない
さて、しかし、ここで、私はまたしてもひとつパラドックスを挟まなければなりません。
そのように探究に向かうことも、真実を求めることも、一見するとあなた、つまり個人の選択のように見える。
そう見えて、そう感じて、それはそれで正しいです。相対的にはその通りですから。
しかし、究極的には、ほんとうはそうではないんです。
個人のあなた、エゴとは、それが確実に本物の私だとして、自己保存を懸命に死守しようとする運動そのものです。
不足を埋めようとし、恐れから逃れようとし、変化させ、進化を求め続け、世界の中で自分を守り抜こうとする。良い悪いではなく、それが個人の基本的なエネルギー運動であり、性質です。
つまり、そうである以上、個人そのものが、自らすすんで「真我へ」向かい、「偽りの自己イメージや世界の現実性の消滅」に向かうことは、できない。
なぜなら個人にとって、それは自身の終わりを意味するように見えるからです。
個人は、ほんとうの意味で「真理」「真の我」「目覚め」や「覚醒」を自らの意志で選ぶことはできない。
では、誰が選ぶのか。
誰がその扉を叩いているのか
誰が、その問いをあなたの中に置いたのでしょうか。
誰が、このイリュージョンのような、意識の織りなす世界の中に「違和感」を送り込んだのでしょうか。
誰が、問いを生じさせ、背中を押し、真実へ向かわせ、目覚めへの道へ歩みを進ませるのでしょうか。
もし個人が本当には選べないのなら。もしエゴが、自らの消滅に向かうことなどできないのなら。その扉を叩いているのは、いったい誰なのか。
私たちは一体、誰に守護されているのか。
ここで、物語は次に進みます。
次回は、恩寵について書いていきます。
あなたの内なる探究に、至福と恩寵が降り注ぎますように。


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